ブログはなぜ書かれるのか

巨人の星


ブログは必ず読まれる?


ブログを含めたネット上のパーソナルなテクストは、報酬がないにもかかわらず、精力的に製作されている。これを支えているのが、「見られている」ということである。ネットは公開され、だれでもみることできるという技術的な可能性が、「誰かが見ている」という希望的可能性を増幅させる。そして「誰かが見ている」可能性は、技術的な可能性を越えていく。それはかつて「ネットに公開すれば、世界中の人がみることができる。」という神話を捏造した。いまはその神話は陳腐化したが、それでもブロガーは神話を捏造している。それは「私がみられたいと思う人が見ている」ということである。

これはブログだけのことではない。行為を含めた広い意味でのコミュニケーションでは、だれもが「見られたい人」が見ているように捏造している。たとえば、誰かと話をしていても、それは目の前の話し相手と話しながら、「見られたい人」に向け発信されている。あるいは、目の前の他者へ「見られたい人」を投影している。たとえば星飛雄馬が幸せなのは、野球という打ち込めるものがあるからではない。「自分が見られたい人」(ライバル達)に見られているという強烈な実感を味あうことが出来ているからである。

だからラカン「手紙はかならず届く」というときには、それは手紙とは「見られたい人への手紙」である故、書かれたときにすでに届いているのである。同じ意味で「ブログは必ず読まれる」。しかし手紙はかならず届いても、返信はこないのかもしれない・・・




ブロガーのジレンマ

ネットは「見られたい人」を捏造しやすいコンテクストである。だから一銭にもならないのにこれほど熱心に書かれる。しかしまた「見られたい人」は主観的なものでしかなく、決して返答がえられない人でもある。ブログには、見られたい人が見ている故に熱心にブログを書くが、決して見られたい人からは返信がこないというジレンマがある。

最近、「ブロガーの燃え尽き症候群がはやっているらしい?

「楽しくて本当にうまくいっているときは(最高の)気分だ。だが楽しくないときは、だんだんと……9時から5時までの毎日の仕事に行かなければならないのと同じような気分になってくる」と語る。「読者にあてにされているように感じはじめ、そうなると……書きたいか書きたくないかに関係なく、何か書き込まなくちゃいけないという気になる。そうすると憂鬱になってしまう」

「私は間違いなく燃え尽きかけている。1週間を終えて『まったく、本当にひどい週だった』と感じる(ことがときどきある)。……正直なところ、コントロールする方法を見つけられずにいる。続けたいのか、離れたいのか。取り繕うことはできるし、気づかれることもないかもしれない。だが、最高の状態でないときには、自分でわかる」

(ブロガーに蔓延する「燃え尽き症候群」 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040712-00000004-wir-sci

この記事の例は、人気がありすぎて対応できないブロガーが焦燥していく姿を描いている。このようなことは、有名人ではすでにパターン化された現象のように思う。たとえば、何かを表現したいという目的を持っているミュージシャンが、人気がでることによって、多くの人に期待され、見られるという快感の中に埋没し、多くの人に見られることが目的化してしまう。しかしやがて、多くの人に見られるという喧噪の中、ミュージシャンは孤独に陥いり、自分を見失う。

多くの人に期待され、見られるという快感とは、「多くの人々に見られている自分を自分で見ている」快感であり、多くの人々に見られている自分を「見られたい人」に見られているという快感であるが、そこのは「ブロガーのジレンマ」と同じものがある。「見られたい人が見ている故に多くの人に見られるように演奏するが、決して見られたい人からは賞賛が得られない」という焦燥である。

たとえば、ビートルズはこれで講演をやめてしまった。レコーディンに没頭し、大衆とのコミュニケーションをしぼることにより、再び「見られたい人」を捏造することに成功し、名作「Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band 」は生まれた。しかしそれも一時的なものでしかなかった。ビートルズは解散し、その後ジョンレノンは再び、大衆とのコミュニケーションをたち、主夫として子供へまなざしを注ぐ、あるいは子供からまなざしを注がれることを選ぶ。

人気ブロガーは、趣味でやっている以上、ペースを落とすことは可能なはずであるが、それができないずに燃え尽きてしまうのは、ネット上の多くの人々の中に「見られたい人」が潜んでいるように捏造するからである。このような意味で「ブロガーのジレンマ」は人気ブロガーだけのことではないだろう。ブロガーはみな多かれ、少なかれ「見られたい人」を捏造し、「ブロガーのジレンマ」による焦燥感を抱いているだろう。(実感として・・・)



私である他者

では、「見られたい人」とは誰か?ブログをするということは「ブログ」という記号コミュニティへ帰属することである。だから他のブログは気にかかる。そして他のブログとの相対化によって自己位置がより明確になる。これをボクは「差異化運動」と読んでいる。

たとえば星飛雄馬の前に花形満が登場することによって、飛雄馬は、さらに野球がうまくならないといけないのである。でなければ飛雄馬がなにものであるかわからなくなるからである。「見られたい人」とは、「私である他者」であり、私が何ものかを、より複雑に明確にしてくれる他者である。そのような出会いによって、私は私であるという充実感を得ることができる。

「私である他者」とのコミュニケーションは、私の差異化運動を加速させ、私は、「私である他者」と相対的な関係性によって、コミュニティ内の自己の位置をより詳細に見いだす。それは、コミュニティとの「絆」を強めるための他者である。

それは星飛雄馬のように簡単に見つけることができないだろう。ネットは一見、世界に広く開かれ、多くの出会いを演出する場のようではあるが、また可能性の増加は、「見られたい人」を継続して捏造しつづけることを困難にするかもしれない。ある人を「見られたい人」であると捏造した瞬間、新たな他者の可能性が無限に開かれているからである。だから「見られたい人」はネットの向こうで超越論的な存在として、浮遊し続けるのかもしれない。

ボクの見られたい人ですか?あなたですよ・・・( ̄ー ̄)ニヤリッ