なぜ性体験は自慢されるのか

俗にいうSEXのABCという形式はいつ生まれたのだろう。ここにあるのは「挿入」を結末とする性関係の物語である。「挿入」に結末をみることができるのは、SEX未経験者が性体験そのものに強い興味をもつとき、あるいはSEX体験を目的として女性を「ハンティング」するときに現れる価値観である。そしてプレーボーイ的マッチョな男性信仰である。このような価値観は、ペニスの大きさ、童貞卒業年齢の早さ、経験人数の多さなどの価値観へ繋がる。

現代では、それは女性にも波及している。巨乳、処女喪失年齢の早さ、体験人数の多さなど。近年の巨乳信仰は男性の単なるフェティシズムではない。マッチョ的男性信仰を補強する象徴であり、またマッチョ的価値観を継承したところのの「マッチョ」的女性像となっている。

実際の男女の性関係は、そのような「マッチョ」的ではないだろう。社会的儀礼の仮面を脱いだとても私的な、しかしそれは自分だけに閉じていない男女二人の相互行為の世界である。恥ずかしい故に、それを隠蔽するようにマッチョ的物語に還元されて語られるのではないだろうか。たとえばそれは友達同士の会話であったり、芸人の女性関係の暴露であったり、最近では素人番組の異性体験の暴露物語だったりする。もはや性関係は、マッチョ的な物語として、語ることが儀礼化している、といえる。

SEXのマッチョな男性信仰の物語は、現代に限ったものではない。性関係はいつも神話的に語られてきた。しかし現代ほど「マッチョ」なSEX観が人々に広く広報された時代はないだろう。それゆえに、現代は奔放な性関係の時代と言われる。しかしそもそもにおいて、そのような性関係の世界は存在しないのである。だから奔放な性関係という物語の反面として、SEXという行為そのものが欲望されない事態、SEXレスな世界が注目を浴びるのかもしれない。

SEXは、SEXという行為そのものではなく、性関係の物語として欲望される。それはマッチョな自分を見ている自分のために、すなわち「マッチョ」記号コミュニティへの帰属のために行われる。いわば語られるためにSEXは行われる。これはSEXそのものの無意味さをいっているわけではない。SEXという行為は一つのコミュニケーションとしての意味があるだろう。単純なマッチョな男性神話への還元が様々な混乱を生んでいるのではないだろうか。

ボクですか?愛のためにSEXする派です。甘えん坊になるなんってありませんよ・・・