なぜはやりものにはとりあえず、のっかっておくのか?

夏だ!プールだ!お祭りだ!

今年の夏は暑いですねー。「人気」ブールにいってきました。もー人、人、人です。しかし客層はなんかかたまっていますね。若者グループ、カップル、家族連れがほとんどです。一人できてる人はいないでしょう。なんというか、「社交系」の若者が多い。オタク系?のヤツはほとんどみかけませんね。特に若い女性の水着はファッションショーのごとくカラフルで、いろいろ競い合っています。それより中身(体型)に気をつけたらどうか、などとはボクからはいえません。日本人の出っ尻、短足には限界がありますし・・・人のことも言えませんので・・・

ボクはカノジョといったのですが、プールに近づくとカップルだらけですね。近くに市民プールもあり、カノジョはたまに友達といっているようです。そこでは地味な水着を着ているとのことです。でもカップルとしてくときには、市民プールはありえませんし、水着もファッショナブル?なものを着るとのことです。(カノジョ談)これは、「人気プールにいく」ということが、一つの記号コミュニティへの帰属を表しているということでしょうか。それは、カップル的には、カップル」コミュニティへの帰属であり、若者グループには「ナンパな?若者」コミュニティへの帰属を表しているのではないでしょうか。

プールにいくということは、夏だけの一つのイベントですから、プールは一つのお祭り場のようです。現代はこのような「イベント」が高い価値を持ちます。「渋谷」などは、簡単にいえば、毎日がお祭り(イベント)であり、特に若者が集まるのは、「はやりものには、とりあえずのっとく!」記号コミュニティ故に、若者が集まるわけです。



祭りのアウラの消失

祭りとは、非日常、共有性、ハプニング的(一回性)ということがポイントです。かつて祭りは、収穫期など神的な共有装置として駆動していた。「神的」な意味は、人々を結びつける共有性を補完する意味があったのではないでしょうか。人々をひとつのコミュニティとしてまとめるために象徴としての神が捏造されていた。お祭りには、音楽が重要な効果として使われるのも、共有性を演出するためです。

ハプニング性にも同様な意味がある。かつての神的イベントにおいて、ハブニング性は神官たちによって奇跡として演出されていた。たとえば現代のサイババの手から物質をだすなどにも見られます。このようなハプニング性は一つの「リアリティの演出」です。人々が、あるコンテクストにおいて「正しい」と思っている在り方を、破ることによって、逆説的に「正しさ」が共有されていたことを、再確認させる。奇跡による驚きの前で、皆が同じリアリティを共有していたことを確認しあうのです。



祭りのイベント化

ここにもベンヤミンの指摘が当てはままる。複写技術の時代には、芸術作品は礼拝的価値から展示的価値へ移行する。展示的な価値の一面が遊技性である。祭りは礼拝的な価値から、遊技的なイベントへ移行したのである。

さらに祭りは日々の労働という日常に対する非日常という境界が明確にあった。現代はこのような日常と非日常の境界が不明確になっている。豊かさは余暇時間を増やしている。イベントに参加する若者は、戦後に余暇時間の増加とともに生まれた。かつて子供から仕事をすることにより大人になったが、その間に若者という余暇的な時間が生まれたのである。その中で、日常と非日常の祭りの境界が希薄になっていったのである。

また現代の暴露装置としての科学技術、およびマスメディアの前では、稚拙なハプニング性の演出は暴露されてしまう。このためにリアリティは、より人為性のない創発的な偶然性へ向かっている。「はやりもの」とは、「なにかがおこるかもしれない。」「なにかがおこっている。」という期待である。渋谷は、渋谷にはなにかがおこっているという期待が「演出」されている。渋谷に行く、渋谷に行こう、ということが、すでにイベントなのである。夏に海にいくのは、なにかが起こるかもしれないことがすでにイベントなのである。はやりものにはとりあえずのっかることが、イベントなのである。



イベント消費

祭りは、遊技的な、演出が隠蔽された偶発的な、そして日常との境界なく現れるようになっている。しかしかつての礼拝的な価値にしても、このような遊技的な価値にしても、人々は共有性に高い価値をおいて、楽しみを見いだそうとしていることには代わりがない。たとえばそれはネットという移動が容易な場にも顕著に現れている。人々が集まるところに、集中的にあつまるということであり、2ちゃんねるも、ブログも、携帯メールも一つのはやりもののイベントである。

そこにあるのは「人の欲望は、コミュニティの欲望である」ということがある。そしてコミュニティである以上、排他性があり、参加のためにパスポートが必要とされる。「人気」プールにいくには恋人が必要であり、恋人を手に入れるためには、若者コミュニティへの帰属が必要であり、そのためにははやりものの消費が必要である。すなわち消費はイベントへのパスポートであり、消費することが、すでにイベントであり、「なにかがおこるかもしれない。」レベルで行われているのである。女性のイベント好きも、買い物好きもこのあたりに要因があるのではないだろうか。

ボクですか?はやりもの好きでもないのですが、パスポートとしての立場上、あと夏に海ははずせないでしょう。ただあのやきそばが500円はいかがなものかと・・・イベント消費も金がかかります・・・