なぜ世界の不完全性を説く言説には注意が必要なのか

「意識」の三つの意味

たとえば「あの娘を意識してしまう」というとき、あの娘が気になるという意味です。ここでの「意識」には、二重に意味があるのではないでしょうか。「あの娘」を意識しているという意味と、「あの娘を意識している自分」がいるという意味です。

「意識」の意味には、三つに分類されるといわれます。①目覚めているというような意味での直覚、②情報へのアクセス、③情報へアクセスする自分という情報にアクセスする、すなわち自意識です。「あの娘を意識してします」というときには、②と③の二重の意味が含まれているということです。

三つの意味は、順により高次なものとなります。①目覚めているというような意味ででの直覚から、②情報へのアクセスへは、世界を意味ととして認識する必要があります。そして③自意識では、世界の中に自己も含めるということです。

意識に対する無意識というとき、無意識は情報へはアクセスしているが、情報をアクセスしている自分という情報にはアクセスしていないといえます。すると②情報アクセスは無意識を含めることになり、③自意識と対立する意識ということがいえます。自意識とは「情報へのアクセス」している自己という情報へアクセスすることにより、自分自身が何を行っているのか、何をしようとしているか、ということがわかっている状態ですが、無意識は外部情報へアクセスはしていますが、アクセスしている自分について意識していない。「気が付かないうちに」行為を行っているということです。



意識ランキング

「意識」の作用によって、われわれは生存しています。意識の効果としては、さまざま上げられます。たとえば危険回避ということを考えると、外部情報へアクセスしそこからより有用な情報を入手し、処理する必要があります。街を歩いていて、段差がある場合に、そこに段差があることという情報を入手しそれを回避する。後ろから車が来ているということを耳でエンジン音を聞いて、端によけるというようなことです。意識は外部の無限の情報の中から、必要な情報を的確に収集する必要があるわけです。

しかし意識という処理能力は有限ですから、意識には、より少ない労力でより多くの効果を上げるという「経済性」が必要とされます。ある情報へ「意識を集中する」と、その他情報へのアクセスが困難になります。本を集中して読んでいて、誰かが話しかけている声が聞こえなかったというようなことです。「意識力」が有限であるが故に、われえわれの内部には、アクセス重要度の「意識ランキング」があるといえます。「あの娘を意識してしまう」ということは、「あの娘」という情報がランキング上位にあることを表しています。だからアクセスを集中してします。



意識ランニングの操作不可能性

三種類の意識の意味のうちでも、③自意識、「情報へのアクセス」している自己という情報へアクセスすることは、もっとも高度であり、労力が必要とされるでしょう。「意識を集中する」という行為は、意識ランキングを「意識的に」コントロールすることを意味します。すなわち情報へのアクセスを意識するという自意識的な行為です。たとえば前から車が来たというコンテクストでは、車の情報は、意識アクセスランキング上位へ上げられ、うまくよけるようにするというようなことです。車が通りすぎれば、車に対する意識ランキングは下げればいいのです。

しかしここでおもしろいのは、意識ランキングのすべてが、自意識的に意識することもできません。なにが今上位にあるのかすべてを意識することができません。さらに自意識によって操作することもできません。たとえば潔癖症をかんがえてみると、普通人が意識ランキングの上位にしない過剰な清潔さという情報が、意識ランキングの上位に来てしまうわけですが、これは自意識的に下げることができません。また「あの娘が意識してしまう」というときにも、「あの娘」が上位にあることは事後的に意識されるだけですし、コントロール不可能です。



意識化と懐疑

意識ランキングが、意識されるときには、「俺はあの娘を意識している。」、「私は潔癖性だ。」とすでに言語化され、名付けられています。そしてそのシニフィアンにはシニフィエが求められます。「なぜ俺はあのこと意識しているのか」「なぜ私は潔癖性なのか」。しかし意識ランキングの上位の理由は、言語化することはできません。「あの娘を意識している。」のは、単なる同情、あるいは吊り橋効果のように精神的な不安によるものかもしれません。

しかし名付けられ、言語意味が言語化されたとき、「俺はあの娘を意識している。」、「あの娘が好きだからだ」、「私は潔癖性だ。」と言ってしまうことによって、意識ランキングの上位という「余剰」は、宙づり状態から、シニフィアンに回収され、自己暗示的に信仰されてます。対象を自意識することそのものが、対象を意識ランキングのさらに上位へ引き上げてしまう効果があるということです。そして不安を生み、言語化という「懐疑」を生むということです。



信仰深化の循環構造

だから宗教にしろ、イデオロギーにしろ、思想は、人々に意識化させるために、世界の不完全さを言語化することから、始まります。このような世界の不完全さを警告する言説は、懐疑を生み出し、その解答としての正義を生み出しているという、自給自足的な効果があるといえます。そして懐疑と正義の自己循環の中で、人々の信仰を深化させていく装置として駆動します。

ただそれらの懐疑や正義がリアリティを持つためには、人々の意識ランキングの上位に言語化されていない余剰が蔓延している必要があるのでしょう。世界の不完全を意識させる言説は、そのような余剰を回収することによって、駆動するのです。そこには仕掛け人としての誰かがいるというよりも、ある人が自己の余剰を回収しようと発した言説が、うまく人々の余剰を回収するように駆動することにより、創発的に思想は増殖していくということかもしれません。

ボクですか?ボクの言説にも注意してください・・・