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夏休みにはいったからか、はてな2ちゃんねるもアクセス数増加のためか、不安定ですね。無料というのもなかなか大変なサービスですね。
とても実直なお言葉をいただいたので返答いたします。
http://aea.to/empty/diary.html

要するに人と繋がっていたいために人はなんらかの記号コミュニティに居ることが全ての大前提なわけね?
じゃあ人と繋がることを楽しいと思いながらも何れその繋がりに飽きるのはどうしてだ。
そして飽きてそこから離れた場合大前提であり確実に居るべき"記号コミュニティ"(というそのもの。特定でない)から外れたことにならんの?
そうして"個"になった人間はそれでもまた何にも属さないっていう記号コミュニティに居ることになるのか?
じゃあ人が誰も自分を理解しないとかいう言葉を頻繁に発するのはなんだ。
その人が属している記号コミュニティを認識していないことになるの?
つーか萌えとか哲学的に語られるとまいるね。
さっぱりわからん。

ボクが「記号コミュニティ」というときには、それは実際に友達グループとか実体のあるコミュニティをいっているのではないんです。たとえば、キミが流行のかわいいキャミをかって、嬉しいというときには、そこにはすでに「おしゃれ記号コミュニティ」に帰属しているんですね。あなたの嬉しさの中に、「誰かに勝った」とか、「誰かと同じようになれた」という気持ちが潜んでいるんです。誰かというのは、友達の「あゆみちゃん」とかではないわけです。キミの中でそのようなコミュニティが捏造されていて、「誰か」が捏造されているんです。現代の消費というのは、そのような記号コミュニティへの帰属を意味するんです。そのキャミが「かわいい」というときの価値観は、誰かの価値観なんです。そしてそれは消費ですから、キミはそのような「記号コミュニティ」に多重に帰属して、飽きて、つぎつぎに欲望していくわけです。

「なんらかの記号コミュニティにいることが大前提なわけなんです。」人は「個」にはなれないんです。価値観そのものが誰かの、コミュニティの価値観ですから。たとえば「誰も自分を理解しないとかいう言葉を頻繁に発する」とき、そこにすでに「誰か」がいるから、理解してくれないと思えるわけです。「自分を理解してくれない」とは、「誰か」は「なにか」は理解してくれているわけです。それが十分満足できるものではないわけです。だから「もっと理解して欲しい」わけですが、ではその誰かとか、誰なんでしょうか。それは、キミの中で「なにか」を理解してくれていることを希望し、さらに理解してくれるだろうと期待する誰かであり、記号コミュニティなわけです。

私は最終的には「その記号コミュニティに固執していていいのか?」とかわからんかった。
自殺はどうしてダメなの、という問いに延々死ぬ思想とか現代社会がどうとか語られた挙句何も答えなかった大人のような。
哲学が最後に求めるべきは「一言、言い切り」だと思うのは間違いなのでしょうか。
だらだら難しく(私がおバカなので分からない)語らなきゃ答えは見つからないのでしょうか。
でも、人を好きになるのに理由は要らないとか、恋愛感情なんて難しいのに言い切られてるものもありますよね。
なら最後はやっぱり一言で言いきれるべきなんじゃないのかなぁ。
私が小説でも議論でもなんでも短くできるほうが凄いと思ってるのが間違いなのか。

哲学が最後に求めるべきは「一言、言い切り」だと思うのは間違いです。自殺はどうしてダメなの、という問いに「一言、言い切って」ほしいのは、あなたの願望ですね。あなたの不安があるが故に、誰かに一言で言い切って、安心させてほしいのです。人が、一言、言い切るのは、相手が子供だとなめたときか、相手をだますときか、相手を笑わすときです。ボクの文章が哲学かどうかは別にして、哲学は、「自殺はどうしてダメなの」のような「問いを延々死ぬ思想とか現代社会がどうとか語られた挙句何も答えない」ものです。答えがでれば、哲学はずーと以前に終わっていますから。

もしボクの言葉にキミがいらいらしたり、「結局なんなの?」と思ったなら、正解です。そういうことですから。