「あいのり」のおもしろさ


最近はテレビで恋愛ドキュメンタリー?番組がはやっている。ちょっと前では未来日記とか、「あいのり」とか、恋するハニカミ!」とか。参加者はよく数人しかいないのに、次々と恋愛が起こるなあ、嘘くさ!とか、もっとうまく演じろよ、そんなことすれば、見ている人に反感を買うだろうとか、思いながら見ているが、なかなかおもしろいなあと思う。

たとえば「あいのり」というゲームの目標は、誰かを好きになり、恋人になって日本に帰ることである。そしてたえず見られているという状況におかれる。参加者は、参加前に「あいのり」をテレビで見ていただろうから、どのように見られているかを知っているだろう。このような状況下で、彼らは絶えず目標までの一つの物語を描き、それを演じるようとする。自己演出し、演じるのである。その物語の出演者は、自分と相手役である。そのためにまずもって相手役を選ばないと物語は始まらない。

海外を数人で日々場所を移しながら、旅するということは、基本的にはメンバー数人に閉じた世界となるだろう。そのような密室で、第三者に見られているという空間はある種、異常な空間である。そのような状況の中で物語を演じ続けるということは、精神的に追い込まれた状態になるのではないだろうか。かれらは追い込まれた状況で、恋愛物語を自己演出し、演じることが求められているのであり、かなりのハードワークである。自分の描いた物語を演じきりたいと思うだろうが、またなんとか乗り切り、早くゲームオーバーにしたいと思うだろう。このような追いつめられた状況におかれることが想像される。



ではこれは本当の恋愛とは異なるのだろうか。実際の恋愛はTVカメラにとられることもなく、二人の閉じた世界として進む。第三者に見られると言うことがない。しかしわれわれは「本能」として異性を求めるのではなく、恋愛コミュニティへ帰属するために、すなわち恋愛を演ずるために恋愛しているのである。たえず誰かの恋愛のように恋愛する。誰かが意識しながら、恋愛していると考えると、「あいのり」のような具現化した、強烈な第三者の視線はないにして、実際の恋愛も第三者の視線が絶えず、感じているのである。

われわれは懸命にコミュニティへ帰属するために物語を演じようとしている。恋愛をしないといけないし、はやりのデートスポットにいかなければいけないし、十代で童貞をSEXを経験しなければならないし、はやりの服を着なければいけないし、話題の本を読まないといけないし、話題の映画をみないといけないし、ブログを書かなければいけないし、夏にはプールにいって焼かなければならないし・・・われわれは消費という物語を演じることによって、コミュニティへ帰属し続けようとしているのである。

恋愛ドキュメンタリー?番組が、つぎつぎと容易に「恋愛」が行われるという嘘くささにかかわらず、おもしろいのは、それが「恋愛」ドキュメントではなく、「恋愛の自己演出物語を懸命に演じようとする」ドキュメントだからではないだろうか。「彼は(あるいは彼女は)どのようにこの物語を演じきろうとするのだろうか?」「なんだよ。そこでまとめるのかよ?もっとひぱっておもしろい物語を自己演出しろよ!」このドラマのそのような出演者たちの葛藤に、TVドラマとは違う、われわれが日頃物語を演じようと苦慮している「リアリティ」があり、まさにそれがわれわれの「恋愛」の本質であるが故に、おもしろいのではないだろうか。


メンバーと恋愛できずに、南アフリカの金持ちドライバーと恋愛を成立させるという強引な物語を演出した彼女はなかなかおもしろかったが、その後どうしたのだろうか。あれはあれで彼女なりの物語の完結の仕方だったのだろうから、今は日本にもどって普通に生活しているのかな?