人はなぜ3年に一度大きな刺激を求めるのか?

「人は2、3年に一度大きな刺激を求める」説?

最近、調子がよろしくない。パソコンは調子悪いし、彼女と危機的喧嘩をするし、夏風邪で寝込んでしまった。バイオリズムが下がっているというか、ある種の閉塞感?が根底にあるような気がしている。ボクは人は2、3年に一度大きな刺激が求めるんじゃないかなあと思っている。それは、生理的な周期のようなものではないかなと思っているのだが…

ちょっと前に生物的に恋愛は3年で終わるという本が流行ったが、あれが誤謬かどうかは別にしても実感として多くの人が近いことを感じているから、共感を得たのではないだろうか。恋愛にとって2、3年はなかなか微妙な期間である。恋愛はじめのような熱病な興奮は薄れて、マンネリ感がでることは否めない。恋愛という記号コミュニティとしてのイベントもそうそうネタがあるわけではない。

「人は2、3年に一度大きな刺激を求める」説からいうと、このような場合に結婚を選ぶのは、必ずしも悪い選択ではないと思う。恋愛がマンネリ化しても、結婚は大きなイベントであり刺激であり、新たな生活が始まるからだ。



予期の世界

人の生活世界は、過去、現在、未来が混在する世界である。いまを感じるときにそれは時間軸という世界観の一点として認識される。いわばたえず過去未来が混在した生活世界内を生きているのである。
たとえば、ボクはこれを書き終えるといつものベットで眠りにつくことを予期している。今晩のことが予期できないとすれば、こんなに安心して、くつろいでいないだろう。明日の朝はいつものように仕事にいくだろうし、明日の晩の、1ヶ月後も、そして1年後も同じように自室のベットで夜を過ごすだろう。

しかしそれは可能性であって、いま火事に見舞われ、今晩自分のベットで眠れないかもしれない。1年後となるとさらに可能性が低くなるかもしれないが、ボクの生活世界は、そのような予期を含んでなりたち、いまのくつろぎを支えている。

このような生活世界は外的刺激によりたえず書き換えられるわけであるが、大筋において思うほどに予期通りに進むものである。残念な?ことだが、予測できない驚くべきことなど、そうそう起こるものではないのである。だから人は往々にして、できすぎた予期の世界へ閉塞感を感じる。刺激を求めるのである。人がもとめる3年周期の刺激とは、楽しいイベントと言うよりも、このような繰り返しの中で出来上がり過ぎた生活世界への閉塞感からくるのかもしれない。



子供の頃は毎年の体験が新しいが、高校ぐらいになってくると、少しずつ出来事が周期性を持ち、「予期された世界」に入る。恋愛、大学、就職、車購入、結婚というのは、思いの外周期的な刺激として行われているのかもしれない。そして結婚は新たなイベントを持ち込む。もっとも大きなものが子供であるが。子供は自己の代わりに、成長するごとにイベントを生み出す働きをする。最近の晩婚、少子化などは子供に頼らなくとも、自己のイベントを演出する方法が世の中に溢れ、定期的なマンネリを解消しやすくなっているからかもしれない


そろそろ毎日にイライラして来ていませんか。ボクですか?やばいかもしれません・・・