知識人はなぜ2ちゃんねるを嫌うのか?

言語の番人、知識人

知識人とは、言語の番人である。「世界へ発せられる言葉」をたえず評価し、リードすることが古来からの使命である。しかし現代は発言が無法地帯化しているという知識人にとって歴史上最悪の時代ではないだろうか。知識人が管理する「世界へ発せられる言葉」とは、ある個人が語るべきとして発せられてきたために、評価するに値した。だから世界に溢れるおしゃべりという言語とは違うのである。一般の人でも適当なことをおしゃべりしていて、たとえばいざTVカメラを向けられ、インタビューされるという「世界へ発せられる言葉」というコンテクストにおかれ、それなりに慎重に発言するものである。

現代の無法地帯化とは、ネットの出現によりおしゃべりが活字化され、記録され、「世界へ発せられる言葉」という形態をもつという事態がおきてしまったということである。(ボクはこれをパロールエクリチュールの造語として、パロリチュールと読んでいる。)おしゃべりは、誰かが何かをいいたいというよりも、お話することが目的として発せられるという流れの中でのことばであり、なにかを語りたいという形態でなく、コミュニケーションとしての反応として発言されるために、その場のノリを多分に含んでしまう。



悪の巣窟、2ちゃんねる

2ちゃんねるでは、そのようなコミュニケーションが凝縮されるために、その中の創発的に意味を浮き彫りにされてくるのかもしれない。さらにはそのような創発的意味を、切り取られ、さらに価値化されてしまうのである。このような言葉は、従来のように知識人によって評価批判するときができない。誰かが、目的をもって発したことを特定することができないからだ。

知識人も最初は、単なる便所の落書きと笑い飛ばしていたが、こまったことに、ボリュームを持ち得てしまったために、「大衆の本音」的な価値として、社会的影響を持ってしまい、知識人の言葉よりも影響力を持ち得る場合がでてきているのである。知識人はこのような状況にたえずフラストレーションをいだきつつけるわけである。そしてその象徴が2ちゃんねるであり、その溝は深まるばかりのように思われる。彼らは、2ちゃんねる=悪の巣窟というひとくくりにして、彼らが管理評価すべき「世界へ発せられる言葉」からしめだすことによってしか対応できていないように見える。



救世主、ブログ

最近は、対2ちゃんねるとしてブログが持ち上げられることが多いが、ブログ的言語世界は、まだ言いたいことがあり、個人の責任の上に語られという形態を保っているために、従来の「世界へ発せられる言葉」の枠内に収まっているといえる。このために知識人も参加しやすいし、評判も良い。

2ちゃんねる的混沌が濾過され、意味ある言語が抽出されたのがブログであり、2ちゃんねるにはもう出がらししか残っていない故に、相手する必要がないということが、最近はやりの一つの神話であるが、「おしゃべりが言語価値化してしまう」というネット社会の問題への回答になっていないように思う。多くの人はブログで言いたいことを発信するという労力よりも、気軽におしゃべりすることを望むだろうから、2ちゃんねる的なものは残り続け、おしゃべりは言語価値化されていくだろう。



「おしゃべりの価値化」という問題

本質的な混乱は、世論とさえ呼ばれないようなおしゃべり群が価値を持つときに、それらをそのように扱うべきかということである。もしかすると、「世界へ発せられる言葉」、そして議論ということ事態がすでに無意味化する事態が起こっているのかもしれない。そもそもにおいて、世界を変えてきたのはなんだろうか。それは知識人が管理するところの「世界へ発せられる言葉」だろうか。人々のおしゃべりは無意味なものだったのだろうか。

「世界へ発せられる言葉」も巻き込んで、おしゃべりは流れていく・・・それが世界というものだ・・・(儀礼的まとめ)・・・