なぜ加藤浩次は走らなければならなかったのか

27時間テレビ

今さらながらですが(少々風邪でダウンしたために書き込むタイミングを逸してしまった・・・)、27時間テレビは、なかなかおもしろかったですね。めちゃイケは好きなので、ひさびさにかなりの時間見てました。日頃あまり絡まないお笑いタレントが競演しているが、見物でした。特に世代間の絡みはなかなか興味深いものがありました。たとえば、ナイナイの上の世代のとんねるずや、さんまはなかなか微妙な感じでした。

彼らに共通して見られたのが、懸命にメタレベルを語ろうとすることですね。たとえば、とんねるず石橋ならば、「今日のスイッチャーはだれ?」とか楽屋ネタを懸命に語ってましたし、さんまならば、ダメだしという形をとりながら、「その笑いの取り方は違うな」とかですね。

このようなメタレベルの発言には、二つの意味があると思います。一つは、若手に対して、俯瞰の位置に立つという一つの権力構造であるということ、もう一つは、それが彼らの世代のお笑いスタイルであるということです。



メタレベルという権力構造

ある行為に対して、メタレベルで語るのは、一つ上の位置、俯瞰の位置に立つということです。これは「おれは一つ上の位置にいるんだ」という封建的な権力誇示なんですね。封建的といっても、実際は現代社会でも一般的な構造です。家庭の親子関係、企業の上司部下関係、コミュニティの先輩後輩関係によく見られます。

たとえば、企業内の上司と部下の権力を支える構造は、静的な職級体系というもはもちろんあるのですが、上司の優位はおうおうに、部下よりも情報をもっているという構造に支えられるわけです。このような情報格差の中で、上司は部下が従うように操作し、また部下は上司に従うように振る舞ってしまうというのが、封建的な権力構造です。

このような情報格差は、各人の「予期の世界」の一部を他者に占有されることを示すのかもしれません。他者がほんとうにどれほど有用な情報を持っているかではなく、もっているだろうことによって、従わざる終えないという状態を生み出します。たとえば暗闇を手探りに歩くときに、行き先を知っているという他者がいれば、どれだけ正確な情報を持っているかに関わらず、またその暗闇が本当はたいした危険がなくとも、他者に身をゆだねるという依存状態になる・・・みたいなものでしょうか。最近の情報化社会では、企業でも、家庭でも、情報格差が破れてきて、権力構造が変質してきていますが・・・

今回の場合ならば、とんねるず石橋や、さんまは、後輩の土俵、それも27時間テレビの大きな土俵というアウエー感から懸命にメタレベルを語ることによって、俺は格上であることを提示して、自分の気持ちを落ち着かせようとしていたというような感じでしょうか。



メタレベルスタイル=ポストモダン

もう一つの意味は、メタレベルの言及が彼らの世代のお笑いスタイルであるということです。かつて視聴者はテレビが映し出すものを「リアル」なものとして受け入れていました。そこにはメタレベルの情報をもつTV製作側と、視聴側という情報権力の二重構造がありました。しかし次第にそのような構造による番組ががベタ化しはじめたとき、視聴側はどうもこれは「嘘くさいな」と感じるようになってきました。

このような状況の中で、ひょうきん族に顕著なお笑い芸人たちは、新たな笑いを求めて、TV製作側のメタレベルの情報をぶっちゃけはじめました。楽屋ネタを積極的に語ることによって、かつてのベタ構造を解体しました。これは結果的に、制作側/視聴側の権力構造の一部を解体することとなりました。

このような視線は、TVのベタ構造が崩壊したということだけではなく、大衆の社会的な「リアリティ」全般をも、解体、構築し社会的な新たな「リアリティ」を生んだといえるかもしれません。日本で80年代に起こったこのようなTVの脱構築は、ポストモダンの流れに位置づけることができのではないでしょうか。

このようなポストモダン的な現象は、世界的な一つの流れとして、特にサブカルチャーによく見られるんではないでしょうか。たとえばロックミュージックという音楽自体は、ビートルズの前からすでにありました。ビートルズたちイギリスのロック少年たちは、商業化されベタ化しつつあったポピュラーミュージックの製作者/聴視者という権力二重構造に対して、「楽器を持てば、誰でも音楽を製作することができるんだよ」というメタレベルを提示し、権力を脱構築したといえます。それによって、ビートルズが熱狂的に受け入れら、世界中にバンドブームが訪れたのです。彼らはベタ化したポピュラーミュージックのメタレベルを提示することによって、ポストモダン的な音楽形態としての「ロックミュージック」を構築したと言えるのかもしれない。

ポストモダンとは、かつての権力がベタ化してくる中で、それに対してメタレベルの言説を提示して、内破する動きであるいえます。このようなポストモダン的な動きは、かならずしも現代社会の特徴ということではなく、社会の一般的な新陳代謝といえるかもしれませんが、現代情報化の中で、その新陳代謝が加速し、顕在化しているといえるかもしれない。



めちゃイケの自虐的リアリティ

しかしこのようなポストモダン化において、人々の「リアリティ」は混迷するかもそれません。「時代に乗り遅れる」と社会的なリアリティからずれてしまいますし、リアリティが分散化されてひ人々の中で共有することが難しくなるなどの問題が生じてくる可能性があります。

ひょうきん族「たけちゃんマン」は、ヒーローもののパロディです。ヒーローものというベタな物語を土台に、たけし、さんまらがメタレベルの楽屋ネタを言い合いすることにより、ベタさが解体され、そこに新たなリアリティがうまれました。しかしすでにこのような「ベタ−メタ図式」そのものが、すでにベタ化しています。たとえば27時間テレビでオカマネタのときに、さんまが懸命に若手に言及したメタレベルの暴露「芸」は、お祭り騒ぎとしてみるか、懐かしくみるかしかないでしょう。このような中でいかに「リアリティ」を確保するのかが、大きな問題となります。それは、メタのさらにメタのさらにメタの・・・という発散の中におかれ危険があります。

今回の27時間テレビでも、極楽加藤のマラソンは明らかに日本テレビの24時間テレビのマラソンというベタのベタなパロディです。加藤のマラソンが中継されるごとに、みなが軽くあしらい続けることによって、加藤がやっていること自体がかっこわるいベタなことであることが強調されます。それでも加藤が画面に登場するごとに、ほんとうに顔がやせ衰えていくのです。そのベタさとやせ衰えていく身体性とのギャップにリアリティが生まれるわけです。ベタを一生懸命演じる身体的な苦痛によって、リアリティを確保しているわけです。

最後に加藤の嫁が泣いてしまうわけですが、あそこで泣いてしまうと、24時間テレビマラソンのベタなパロディでなく、ほんとうの感動マラソンになってしまいます。感動マラソンでやせ衰えていくのは、24時間テレビマラソンのベタさそのもので、もはやリアリティではないわけです。24時間テレビにみられるような、本来の「かんばっているから感動する」ということが、ベタ化された「感動させるためにがんばる」へと転倒された嘘くささが忍び込んでしまうわけです。だから加藤は嫁に「ここで泣いたらダメだろう」と、ダメだしをするわけです。まあ、加藤の嫁が泣いたのもある意味「あり」という空気までなっていましたが。

たとえば、SMAP中居が、SMAPの歌内にスタジオにたどり着くように、炎天下懸命に自転車をこぐことも、ベタなぼけであることは、だれもが了承しています。しかし彼が一生懸命ぼける身体的苦痛はリアルなわけです。当然、岡村のボクシングもそうです。めちゃイケのスタイルとは、ベタを一生懸命やることによって、リアリティを確保するということです。たとえば岡村のチャレンジシリーズにしてもそうですが、多くにおいて、身体的な苦痛によってリアリティを確保するという自虐的なスタイルです。たとえばしりとり侍が放送禁止になったのは、しりとりで負けたものがいじめられることそのものよりも、めちゃイケスタイルでリアリティを確保するためには、敗者は身体的にほんとうに苦痛なほどにいじめられる必要がある故に、放送禁止になったのですね。




つっこみ化する情報化社会

このような現代におけるリアリティ確保の難しさは、テレビ番組の問題ではなく、社会そのものの問題かもしれません。「われわれは、どのようにして生きている充実感をえるか」、ということです。めちゃイケの笑いが示すように、わらわれが生きる充実感も「身体的な過激な苦痛」によってしか得られなくなっているのでしょうか。

このような傾向は様々なところで見られるように思います。たとえば「ベタ」なところでは、格闘技ブームです。短い時間で瞬時の肉体的衝撃で決し、闘士が倒れていくというリアリズム。さらに何度もいっていますが、ロリコン、女子高生ファッション、ペットブームなどのという「原始回帰性」も肉感的なリアリティへの信仰ではないでしょうか。しかし最近の青少年犯罪を結びつけるのはやや強引?

しかしネットには、さらに先の傾向を見ることができるかもしれません。たとえば、2ちゃんねるで行われていることは、相手のメタレベルを語り優位に立とうとする、メタレベルの位置の取り合いです。そこに情報格差があるわけでなく、ただ言語的なつっこみとして、メタレベルのつっこみが繰り返される。その他、携帯メール、ブログでもある記事に対して短いコメント(つっこみ)を書くという構造をもっている。

人々がネット、メールに毒されて、長文への集中の持続力が低下というようなことではなく、人々が短いフレーズで、共有されたベタの世界をコンパクトに暴露することにより共感を確認しようとしている。そこにあるのは、加速する情報化社会の中で、必死に共同体として振り落とされないようにする姿ととるのはあまりに悲観的だろうか。

最近、またお笑いブームらしい。しかし今回のお笑い世代の特徴は、いままでとはまた違うように思います。「なんでだろう〜」「ゲッツ!」「間違いない」「残念!」などのキャッチフレーズによるつっこみが反復されています。

ボケはどこにあるのか?たけちゃんマンのようにヒーローものというベタ化した設定の破壊もければ、ボケを狂気へ消化させる力もなければ、ベタを賢明に演じ、自虐的に演出しすることもない。ここでは、ボケはすでに社会全般に共有されていることが前提とされています。たとえば有名芸能人をネタにしてつっこむだけのピン芸人が多いですが、いわばこれは身内ネタなのです。視聴者も含めて、みんな同じ学校の生徒であり、先生をからかうように、つっこまれるのです。テレビ製作側だろうが、視聴者側だろうが、情報格差が希薄化して、おなじ「ベタな世界」を共有していることを確認しているだけ?

これって、ほんとうに面白いですか?と思っているのは、私だけでしょうか・・・