なぜ人はマイブームを求めるのか?

ボクはまったくもって本屋が好きで、暇つぶしに良く行くし、街を歩いていて、本屋を見ると入りたくなる。本屋などどれも同じだろうと思うだろうがそうでもない。なぜか精神心霊系が充実している本屋、なぜか戦争ものが充実してるなど、特に街の本屋さんには店主の好みなのか、不思議なカラーがあったりしておもしろい。また本は無数というほどあるので同じ本を置いていても、本屋ごとの配置によって目にとまる本が異なったりする。コンビニや、駅の売店もあなどってはいけない。読みやすくて、流行のもののみに先鋭化され、いまの流行はこれだ!的な情報があり、ほんとの暇つぶしなどには良い本がある。



本の魅力は共感にあるという意味で、本は多かれ少なかれバイブルである。たとえば「ビックトゥモロウ」的人生訓書に書いてあることは役に立つのか、立たないのかではなく、立つと信じられる人を救うのである。

深く共感できる本には、そうそう出会わないが、ときに強く共鳴し、影響される本に出会う。そのような本は直接、なにをすべきかというような教訓よりも、その本に「答え」を暗示的に読みこむ。そのような意味で深い共感は信仰的である。



どうすることが正しくて、どうすべきかなどは、だれにもわからなし、そもそもそのときになにを選択しようが、次の瞬間にはまた無数の選択があるのだから、たいして意味がないのかもしれない。しかしそこに決断というコンテクストがあらわれたとき、本の影響によって、選択することが容易になり、決断後も潔く進めるのならば、それは本の内容が正しい、正しくないということではなく、その信仰性によって納得して一歩踏み出せたと言う意味で、その本の意味は果たされたといえる。

そう、これは本である必要はなく、「誰かの言葉」でも、「音楽」、「映画」でも良いわけで、すべてのものがバイブルになりえる。さらに現代の情報の多さ、早さは、バイブルの入れ替わりの早さを生む。現代は「マイフェイバリット」ではなく、「マイブーム」の時代です。(「マイブーム」って言い方がはやったのは最近ですよね。)人の幸福は宗教のように大きかろうが、「マイブーム」のように小さかろうが、「信仰」の先にしかないのではないだろうか。それは「誰かの声がする」という錯覚と依存の構造である。「ヴィトゲンシュタインのパラドクス」である。


ボクのマイブームですか、ビジネス「権威(グル)」だったりします。ドラッカー、ポーターLOVE♪(*^^*)