村上春樹はなぜ「ク〜ル」なのか?

村上春樹ファンです

村上春樹の新作アフターダークがでたので読んでいる。ボクは、小説をあまり読まない。特に日本人作家のものはほとんど読まないが、唯一村上春樹だけは、ほとんどの小説作品を読んでいる。特に初期の三部作「風の歌を聞け」1973年のピンボール羊をめぐる冒険 あたりが大好きである。学生時代からのファンなので、なぜ村上春樹がおもしろいのか考えたことがない。好きになってしまうと、冷静に分析することはむずかしい。

感覚でいうと、村上春樹の小説を読みだすと、時間の流れ方がかわる。今までの喧騒から離れて、「ク〜ル」な時間が流れ出す。そして世界は「ク〜ル」な世界となり、そこではボクはとても「ク〜ル」な人間になる。というような感じでしょうか。

「ク〜ル」とはなにか?様々な状況において、人は一人では不安だから、人と迎合したいし、取り入りたいものであるが、(物理的に出なく、精神的に)そのような「群れ」から離れて、やせ我慢でも、自分なりの位置に立ち周りを見渡す冷めて、冷静な姿勢ではないだろうか。アメリカではかっこよさの最高の形容が「ク〜ル」であると聞いたことがある。「ク〜ル」はかっこよさである。



強くなければ生きていけない、優しくなければ生きていく資格がない

評論家がいっていたのか、本人が言っていたのか、村上春樹の小説のスタイルである一人称による語り調はレイモンド・チャンドラーなどのアメリカの伝統であるハードボイルド小説の流れからきているというようなことを聞いたことがある。

ハードボイルドに登場する主人公は、多くを語らずに、タフで、過去に傷を持ち冷めている、なおかつとにかく頭が回る「ク〜ル」ガイである。彼は周りとの深い関わり避けるが、絶対に守らなければならないものをもって、そのためには死をもおそれない。

さらに探偵とは、そもそもメタの位置にいるのである。問題はどこかで、誰かに起こっている。その当事者から依頼をうける。メタの位置と、問題の内部とを行き来する立場が求められる。そもそもにおいて、「ク〜ル」位置にいるのである。



村上春樹の「ク〜ル」な世界

村上春樹の小説の主人公は、明らかにそのような「ハードボイルドガイ」を継承している。しかし彼に降りかかる問題は、「金持ちのお嬢様の救出」のような「単純なもの」ではなく、もっと複雑で抽象的である。いわば日々ボクたちが対面する「何のために生きているのか」的で、なにが問題であるかわからないほど複雑な問題である。

だから彼は、「ハードボイルドガイ」のような自信をもっていない。問題は完全には解決できないことをしっている。やりすごせるならば、やりすごしたい。そして「ハードボイルドガイ」な探偵のように、まるで人ごとに問題内部とメタ位置を行き来するのである。それでも彼は、「ハードボイルドガイ」として、最後は守らなければならないもののために、戦わなければならないことを知っている。



村上春樹的「ク〜ル」な社会

これだけ多くの人に村上春樹の小説が受け入れられるということは、現代人の状況は村上春樹の世界に投影されやすいものであるということだろう。

現代において、情報は権力である。めまぐるしく巡る情報の前では、ボクたちは、よりメタな位置を確保するよう「クール」に振る舞わなければ、流されてしまう。しかし「ク〜ル」であるということは孤独感、疎外感に繋がる。そして単に「みじめさヤツ」として、のしかかってくるのである。ボクたちはこのようなジレンマの中で生きている。

村上春樹の世界に入ることによって、孤独感は「アメリカンタフガイのク〜ルな状況」として肯定され、周りの人々に理解されない「ともしび」のようなプライドは「アメリカンタフガイのク〜ルなプライド」として肯定される。村上春樹の小説はボクたちの日常をハードボイルドで「ク〜ル」な冒険へと変換する現代の神話である。これは自己逃避だろうか。ノンノンノン!本とは本質的にバイブルであり、リアリティとは神話ですから。


ん〜、ファンに「ク〜ル」な分析は難しいのかな・・・・