なぜ人は「なんのために生きているのか」と問うのか

私の中のとてつもなく強い生命力

「なぜ私は生きているのだろう」という問いは、だれでも一度は思うものだろう。かつてなら「そこには神様が決めた大いなる意味がある」などの答えがあっただろうが、現代的な返答としては、「生きることに意味などない」、あるいは「自分で見つけるものだ」ということが多く、「〜のためだ!」と明確な意味を答えることは難しくなっている。

ただ思うのは、私の中にはとてつもなく強い生きようとする生命力がある。心臓は血液をおくりつづけ、体温は保たれつづ、怪我をすれば、それを治癒する。また誰かが攻撃してくれば、怒りとともにどこからそんな力がというような力がでる。そこにあるのは、個体が個体でありつづけようとする力である。これは、有機構成など言われ、人に限らず生命全般の特徴であり、「動物的」、生理的なものである。このような個体としての秩序を維持しようとすることを個体性と呼ぼう。



個体性と集団性

生命に働くのは個体性だけではない。たとえば蟻は個体性を維持するだけではなく、、女王蟻、兵隊蟻など集団の一部としての意味を持ち、集団の秩序を維持しようとする。そして蟻は集団の維持のために個体性よりも集団性を優先する。集団の秩序を維持するために集団の一部として機能することを集団性と呼ぼう。

集団は個体が集まり秩序を維持することであるが、その個体もまた内部に個体が秩序を維持した集団である。たとえば細胞が集まり、臓器ができ、臓器が集まり、人ができ、人があつまり、コミュニティができるというような多階層構造をなしている。個体は、個体であり続けようという個体性と、集団の一部として機能する集団性が働く両義的なバランスでなりたっている。




意識の進化

ただ生命において、個体、あるいは集団という単位は必ずしも明確ではない。たとえば植物の個体とは何だろう。枝を切って植えてもそこからまた成長する場合に、個体とは何を指すのかとても不明確である。

個体性を高めること、すなわち個体としてより高い秩序性を持つと言うことは、生命に中の進化上の一つの傾向として考えられる。動物になることによって、環境から離脱するためには、個体としての高い秩序が必要である。そして動くために俊敏な判断が必要とされ、意識が芽生え、知能が発達する。意識は「情報へのアクセス」であり、個体性の高まりの中で強められてきた能力である。そして意識は、人間において自己にまでアクセス可能となる。

自意識へと続く意識の芽生えは、個体性を高める傾向であると言えるが、また「情報へのアクセス」という意味で、コミュニケーションであり、世界との繋がりである。自意識によって、偶有性から単独性への転倒、集団の中で代替が聞く個体から、代替がきかない「私とはこの私だけである。」という転倒が行われるが、「この私」という価値は集団との関係、他者による価値としてしか得られない。



コミュニティの中で私だけの場所はどこにあるのか

「なんのために私は生きているのだろう」という問いは、私の中の生きようとする生命力にはあらわれない。個体性において、私は無言で生きようとしているのである。「なぜ私は生きているのか」と問うのは、自意識である。自意識によって転倒された単独性を満たすために、そして集団性への回帰として、集団の中の私の位置を問い続けるのである。「私のコミュニティの中での代替のきかない位置はどこにあるのか」「コミュニティの中で誰かに私だけの価値を承認して欲しい」と。

集団の中で代替がきかない位置などあるだろうか。「この私でなければならない位置」というのは存在するだろうか。より大局的に見れば見るほど、それはむずかしいように思う。それでも自意識は「この私でなければならない位置」を探しつづける。それは私の中に内在する個体性から集団性へ回帰する力である。私は集団から離れて私であることはできないのである。

「なぜ私は生きているのだろう」という余剰は、「あなたはあなたである。」と承認する超越的他者を捏造する。それはかつては神という他者であり、、現代は消費の先の他者であり、恋愛の他者であり、ネットコミュニケーションの先の他者である。それは「あなたはのぞむ他者」として捏造される。

このような循環は、多くの無駄を排出しながらも、生命活動として、そして社会的生産性の向上への駆動力として働いているといえるだろう。