神話なき神話の時代 名場面集 その2  

リアリティ/神話/正しさ/メタレベル

解説・・・人は信仰(小さなアウラ)というファクター=「神話」を通してしか、コミュニケーションできない。神話は人が属する記号コミュニティ内のリアリティを支えている。

ポストモダンとは、かつての権力がベタ化してくる中で、それに対してメタレベルの言説を提示して、内破する動きであるいえます。このようなポストモダン的な動きは、かならずしも現代社会の特徴ということではなく、社会の一般的な新陳代謝といえるかもしれませんが、現代情報化の中で、その新陳代謝が加速し、顕在化しているといえるかもしれない。
   「なぜ加藤浩次は走らなければならなかったのか

他者との関係性が、メタのメタ、メタのメタのメタ・・・という発散に陥るとき、そこでは、「リアリティ=生の充実感」の確保が難しくなる。ブログで自己を公開するということは、自らパノプティコン構造を作り出す。そしてメタの位置にたつ「誰か」を作り出すのである。そのような「誰か」に見られていることによって、自己がなにものであるのかを作り出し、メタの発散を抑制するのである。
   「なぜネット上では競って「自分」が公開されるのか

「意識力」が有限であるが故に、われえわれの内部には、アクセス重要度の「意識ランキング」があるといえます。・・・対象を自意識することそのものが、対象を意識ランキングのさらに上位へ引き上げてしまう効果があるということです。そして不安を生み、言語化という「懐疑」を生むということです。・・・だから宗教にしろ、イデオロギーにしろ、思想は、人々に意識化させるために、世界の不完全さを言語化することから、始まります。このような世界の不完全さを警告する言説は、懐疑を生み出し、その解答としての正義を生み出しているという、自給自足的な効果があるといえます。
   「なぜ世界の不完全性を説く言説には注意が必要なのか

現代におけるリアリティ確保の難しさは、テレビ番組の問題ではなく、社会そのものの問題かもしれません。「われわれは、どのようにして生きている充実感をえるか」、ということです。めちゃイケの笑いが示すように、わらわれが生きる充実感も「身体的な過激な苦痛」によってしか得られなくなっているのでしょうか。
   「なぜ加藤浩次は走らなければならなかったのか

人は複雑な世界を見たいように見、伝えたいように伝えるのである。そしてマスメディアという仕事は、複雑の単純化という人が行う情報処理の労力を肩代わりするというサービスで成り立っているのである。そしてそこに「神話」が生まれるのである。
   「なぜ年収一千万円以上が「勝ち組」なのか?

ハプニング性は一つの「リアリティの演出」です。人々が、あるコンテクストにおいて「正しい」と思っている在り方を、破ることによって、逆説的に「正しさ」が共有されていたことを、再確認させる。・・・現代の暴露装置としての科学技術、およびマスメディアの前では、稚拙なハプニング性の演出は暴露されてしまう。このためにリアリティは、より人為性のない創発的な偶然性へ向かっている。「はやりもの」とは、「なにかがおこるかもしれない。」「なにかがおこっている。」という期待である。渋谷は、渋谷にはなにかがおこっているという期待が「演出」されている。渋谷に行く、渋谷に行こう、ということが、すでにイベントなのである。・・・すなわち消費はイベントへのパスポートであり、消費することが、すでにイベントであり、「なにかがおこるかもしれない。」レベルで行われているのである。
   「なぜはやりものにはとりあえず、のっかっておくのか?

男は、「普通の女性はAVなどにはでるほど、エロくない」という「正さ」を持っているということだろう。そして男は新しい女優にそのような神性を捏造するのである。そしてそれが破られ「狂気」が見えたときに、リアリティを生み、興奮するのである。
   「エロビデオはなぜワンバターンなのか

医者ものにおけるリアリティを支えているのは、「死」である。しかしそれは「死」そのものではない。ハリウッド映画などに見られるように、「死」そのものは、リアルではない。医療現場は、「生」への尊厳の場であるという「正しさ」が共有されたときに、死に対するリアリティが共有されるのである。・・・「正しさ」があり、その「正しさ」が環境との軋轢の中で、「狂気」として現れるときに、強烈なリアリティが生まれるのである。ここでいう「正しさ」とは、論理的なものではない。それは私が私であるという根底に根ざしたものであり、疑うことさえ知らないもの、それは論理以前のものであり、「神話」である。
   「ヨン様はなぜリアルなのか?

美術館という鑑賞の場(コンテクスト)に「泉」と名付けられた便器が、展示されたとき、われわれのリアルは混乱する。日常の象徴が、フィクション場にあられる。「確実な距離」の先に日常が現れ、それがフィクションとして見るように強要されたとき、われわれが嫌悪したのは、便器でさえ、偶有性から単独性への転倒が可能なこと、すなわち神話となりえるということである。それは逆説的に、フィクションと「確実な距離」があるはずのわれわれのリアルはほんとうにリアルなのかということである。リアルとは、私の単なる思い込みでしかないないのではないか。私という存在は、神話の上に辛うじて立っているだけではないのかと言うことの恐怖である。
   「ジジェクはなぜ映画を語るのか

現代のように価値が多様化した時代には、私が私であるという価値観の選択を日々強いられる。それは自由であるということと同時に、めんどくさいし、さらには他者との共感を得ることが難しい。だからといって、現前の他者に規定されることは、多くにおいて受け入れがたいし、抑圧として感じてしまう。だからこのような超越論的他者による規定、さらにはコミュニティへ帰属させられるという否定できない強制力は、楽であり、楽しいのである。
   「O型は楽天的なのさの巻

ある行為に対して、メタレベルで語るのは、一つ上の位置、俯瞰の位置に立つということです。これは「おれは一つ上の位置にいるんだ」という封建的な権力誇示なんですね。・・・このような情報格差は、各人の「予期の世界」の一部を他者に占有されることを示すのかもしれません。他者がほんとうにどれほど有用な情報を持っているかではなく、もっているだろうことによって、従わざる終えないという状態を生み出します。
   「なぜ加藤浩次は走らなければならなかったのか

人の生活世界は、過去、現在、未来が混在する世界である。いまを感じるときにそれは時間軸という世界観の一点として認識される。いわばたえず過去未来が混在した生活世界内を生きているのである。・・・残念な?ことだが、予測できない驚くべきことなど、そうそう起こるものではないのである。だから人は往々にして、できすぎた予期の世界へ閉塞感を感じる。刺激を求めるのである。
   「人はなぜ3年に一度大きな刺激を求めるのか?