(2ちゃんねる哲学板)生きていくのがつらい・・・(ある引きこもりくんとの対話)

: ニーチェを読みました・・偽善に満ちたよのなかが嫌になりました自分はこの世の中には向いてないようです哲学は人を救えるのでしょうか・・

: 世の中には弱者面をして、金をせしめている人間がいくらでもいます。しかし、そういった人間のことを指摘することは世の中のタブーです。なのに、自分のような社会的弱者が弱音を吐けば世の中は甘えとしかいいませんどうやら、世の中では弱者と認知される人間と、甘えと認知される人間とは完全に決められていて、それは論理でなく、そういうことになっているらしいです何たることでしょうか

: 世の中では差別は悪いこととして教えられていますしかし、世の中では差別というのは不可避なものですから、世の中の人は差別は悪いといいながら、無意識に差別をしていますそれはとても恐ろしいことだと思うのです

: 差別なんて世の中で不可避でしょうマクドナルドの店長が、外見で、店員を採用しても差別ですよ。大企業が、その人の能力で採用を決めても差別でしょう差別なんて世の中であたりまえなんですよなのに、差別はいけないとか、差別はしないとか言ってる人は矛盾ですよ。ちょっと子供っぽい議論ですけど

: 僕は哲学には詳しくありません。しかし、世の中の道徳や倫理というものは突き詰めていくと、不条理になると思います。どんな道徳にも損をするやつと得をする人がいますし、不平等な倫理がまかり通ってると思う。世の中の人権とか慈愛とかいう感覚がどうしてもうさんくさいのです

: 私は、ダダをこねているわけではない。ただ、問い掛けている。条理とは非条理を含む。これは絶対ではないか自分は知ってしまった。条理には非条理な側面がある。一度わかったことは忘れることはできない。これは自転車に乗った人間が、乗り方を忘れられないのと同じだ。しかし、世の中の人の多くは条理の絶対性を認めることはできないむしろ条理を利用し自分の立場を強化しようとする(いわゆる力への意志でしょうか)これは一体どうしたらいい。どう生きるのが最良かなんて哲学は教えてくれるのか



ぴかぁ〜: なんやかんやいうても、おまえらが求めているのは「愛」や。なに?うさんくさいか?恋愛、エッチだけちゃうぞ。おまえを愛して、信頼して、分かり合える人や。そんな出会いによって、おまえは幸せを味わえるんや。だから引き込みりとか、童貞とか、は、もう単に寂しいやつやねん。寂しいヤツに社会をまともに語られへんねん。ほんとに社会を考えたいなら、自分を幸せにしてからにしな。不純に、自分の不満を社会の問題に転換するな。そんな、なさけないことだけはするな。ええな。人が強くなるためには、人を愛するしかないんやで。

考える名無しさん: 愛って何ですか。錯覚ではありませんか。愛する人が死んだらどうしますか?まさか、心の中に生きているのだ!とか言いますか?そもそも、愛に幸せとか生きる意味とか求めちゃったらそれって不純なんじゃありませんか?

ぴかぁ〜: 「愛」は錯覚や。しかしな人は錯覚で幸せになるようにできとるねん。それはひとだけちゃうで。猿でも、ウサギでも、そうや。他者とわかりあったとき、(それが錯覚だとしても)幸せになれるんや。生きているときから、私ちゅうのは、体だけやないんやで。他者の心にも私はある。そして死とはなにか、には決まりはないんやで。だから愛する人が死んだら、心の中に生きているんやで。心の中で生きているとおもえば、それはそれでええんやで。

ぴかぁ〜: 現代は直接、心と心がふれあうのが難しい。だから、オタクとか、ちゃねらーになるんや。ものへの愛着を通して、ネットを通して、人とコミュニケーションするんや。しかしそれはそれで、しかたない。それならそれでええやないか。とことんやりな。とことんきわめな。いつか、その先に見つかるはずや。ただな、社会のせいとか、人のせいにするんやない。わかるな。

: はっきりとはいと言えないところが、悪い癖なのですが、お気持ちはありがたく理解致しますところが、、こんな事件がありました。私と同じく、社会でそれほどうまく生きられず(私と比べたらぜんぜんですが)に悩んでいた友人がいたのですが、彼は就職した途端に、変わってしまいました。恐らく、何故変わったのかというと、それは、企業ファミリーというやつでしょうか会社で仲間を得たことが大きいと思います。その途端に私のことを酷く見下すようになりました。社会でうまくいかずに、何とか学問に活路を求めようとしてる私に、「ふつーに生きればいいのにー」と見下すのです。自分はそれほど、こいつを憎たらしく思ったことはありません。普通に生きられないから悩んでるわけですからね。しかしながら、彼は会社に入って、今までとは違う強度を得たらしく、その後も繊細さを失ってしまいました。それは僕からしたらさびしいことでもあったのでしょうが、それが成長というものでしょうかだとしたら、自分には成長は難しく感じます。彼は貴重な感性を失ってしまったと思います。幸せにはなったのかもしれませんが

ぴかぁ〜: なるほどな。会社にはいるちゅうのはな。コミュニティに帰属するちゅうことや。人は愛によって強くなる。コミュニティというのは、小さな「愛」でできとるねん。それが錯覚だとしても、関係性とはそういうことやねん。友達は、会社にはいって、コミュニティに帰属して、自信がついて、強くなったんやな。それは悪いことちゃうで。人はなんらかのコミュニティに参加し強くなるんやからな。キミかて、自分ではわかっていなくても、コミュニティに参加して強くなっているんやで。たとえば、日本国民、大衆、家族、TV番組、趣味などなど。これは直接、人とまじわらんでも、キミが帰属していることにはかわりなくて、それでつよくなっとるんや。友達は繊細さをなくしたというか、強くなって、興味が違うとこにいったんやな。そしてきみは残されてさびいしい。でもな、キミはどないしたいねん!ちゅうことやろう。ちゃうか?きみも愛をさがすしかないねん。にげたらあかんねん!

ぴかぁ〜: あのな、わしがなんどもいう「愛」ちゅうのはなにかちゅうとな、それは「私はだれか?」に対する解答やねん。わしらが求めてるのは、二つだけやねん。一つは生きると言うこと。食うって、寝て、安心して。でもこれは現代ではだいたいみたされとるな。二つ目は「私はだれ?」に対して、強烈な肯定をもとめとるねん。これは、「愛」によってしかえられへんねん。私がだれかは、誰かにもとめられる私でしかないねん。ん〜ちょっとむずかしかったかな〜

ぴかぁ〜: 1はさびしいだけ。っていのが、みんなにバレバレやねん。かまってほしい。同意して欲しい。これは「同意するコミュニティ」に参加したということやねん。そして小さな愛をもらって、強くなりたい、ちゅうことやねん。

: とんでもない。否定でもいいですよ。しっかりと、完璧に完膚なきまでに否定してください肯定なんか求めてはないですよ。自分が考えてるのは「何故だ?何故だ?何故だ?」です。自分を肯定するために理屈をつくるのはそれこそルサンチマンですよ。それに自分が不条理を感じるのは必ずしも自分のためだけというわけではないですし・・・世の中で割を食ってる人は他にもたくさんいますよ。

ぴかぁ〜: わからんかな。きみはかまってほしいねん。「同意するコミュニティ」とは肯定ではないねん。肯定、否定を含めて、誰かがきみの話に興味があって、キミがそこにいる、キミの話をきく、キミの存在を認識するということやねん。きみはだれかにきみの存在を認識してほしいねん。そうすることによって小さな愛をもらいたいねん。それで友達と同じように強くなりたいねん。もうここではばればれやねん。

ぴかぁ〜: でもかまてほしい、コミュニティの参加したいというのはぜんぜんわるいことやないねん。でもな、きみは自分のそういうところにきずいてないねん。ここの板はみんなそういうことはわかってる人が集まって、楽しんでるねん。だからきみはアホやし、暑苦しいし、子供やし、うざいねん。

ぴかぁ〜: 世界は不条理、みんな本音と建前つかいわけてる、偽善だ!ちゅうのは、 中学生のナイーブさやな。そのころからひきこもってるちゅんやから、しかたがないか。社会学的にはそういうのは儀礼とかいって円滑なコミュニケーションのために猿でもやってることやねん。まあそう言う理屈は抜きにみんなとコミュニケーショントして、相手を認識して、相手に認識されて、「愛」し、「愛」され、強くなっていったらええねん。