なぜ上から二冊目の本を買うのか

pikarrr2004-10-02


リスク管理としての選択と初めてという価値

なぜ上から二冊目の本を買うのか、というときに、まず考えられるのが、リスク管理である。一番上の本は多くの人がさわっている。そのために破れていたり、汚れていたりして、本の目的である読むことに支障をきたす可能性がある。だから一番上の本は避ける。リスクを避ける意味では積まれた、より下の本を選ぶ方がよりが、下になるほど、取り出しにくくなるので、労力を効力すると、、上から二冊目の本を選ぶのである。

しかし本当にそれだけだろうか。一番上の本は、本の目的である読むことを妨げるほどに破損しているだろうか。そこまでひどいものはそうそうないように思う。ボクたちが上から二冊目の本を選ぶのは、それがまだ誰も開けていないことそのものに価値を見いだすためではないだろうか。

本は大量に複写され世の中に出回っている。しかし私が購入した「この本そのもの」は、他にどこにもない本なのであり、「この本そのもの」を開くのは私がはじめてなのである。一番初めであるというその事実に私は喜びを覚えるのである。



「小さな小さなアウラ」という「小さな小さなこの私」

ベンヤミンは「複写技術時代の芸術作品」で、複写技術以前の芸術作品にはアウラがある。アウラとは、その芸術作品の、いまここにあるという唯一性であり、礼拝的な価値であるといった。

アウラの構造は、人が対象に唯一性を見いだすときに、その対象との関係性において、私自身の唯一性を感じることができることである。「この特別なもの」と関係する私も、「特別」なのである。そして私はどこにでもいる私から、私でなければならない私になるのである。

かつて私の唯一性を保証したいのは神であった。神は世界、人類を俯瞰する存在であるが、また各人とマンツーマンのコミュニケーションが可能な存在なのである。神いつも私を見続けてくれているのである。それによって、私は唯一な存在となるのである。

複写技術時代以前の芸術作品は神との対話によって作られたのである。だから芸術作品のすばらしさは、神との対話の記録であり、唯一なものであり、礼拝的な価値が宿る。芸術作品を鑑賞するということは、神とのマンツーマンの対話なのであり、鑑賞者はアウラを感じるのである。

ベンヤミンは複写技術時代には、芸術作品は大衆に向けて作られるようになり、アウラが消失したと言った。もはや神との対話によって私の唯一性を保証してもらえない時代になったことを意味する。私たちは、「上から二冊目の本」のように様々な対象の小さな唯一性を通して、私の唯一性を保証しようとするのである。そこには神への対話としてのアウラはないが、「小さなアウラ」がある。

現実、上から二冊目の本はどれだけの特別だろう。私が抜き去れば、そこにまた上から二冊目の本があらわれるのに。だからそれは小さな小さなアウラである。人は生活の中で小さな小さなアウラを積み重ね、「この私」であることを維持しているのである。



人が根元的に求めるもの

人が根元的に(生理的に)求めているものは、二つあるのではないだろうか。一つには生存の継続である。栄養、睡眠、安全などを確保し、私が私で居続けるということ。現代では高度文明社会ではある程度保証されてきている。

もう一つは、私が多くの人々の一人ではなく、唯一な私であるという実感をえることである。そして重要なことは、「この私」という価値観を得る方法は他者に承認されることでしか得られないということである。他者が「私」というものを特別に認識し、コミュニケーションすることによって、はじめて私は唯一な私という実感を得られる。これは時に大きな意味での「愛」と呼ばれる。かつの「この私」を承認する他者として神は存在したのであるが、現代他者は様々な対象に分散してしまった。



利他性という私の充実感

利他性とはなんだろうか。ニーチェはそれをルサンチマンといい、偽善的なものであるといった。しかし自己を犠牲にして誰かを助けるとき、私は他者との関係によって、私の唯一性=使命を得る。これは単純な自己満足ではない。人が唯一性を獲得することは、根元的な欲求に根ざしており、集団性へ回帰する行為である。

人は利他性のために、生存を犠牲することができる。自分はとても利己的な人間であると思っている人でも、そのようなコンテクスト(たとえば愛する人とのタイタニック的な状況であったり、信じる集団の闘争の場であったり)に置かれると、潔く、「男前に」、自己犠牲的に振る舞うだろう。

生存を賭けた利他行為は、強烈に「私とはなんであるか?」という自己意味を見いだし、ある種の満足感、高揚感を得る。それは人の根元の一つにである「この私」という唯一性を満たすためだ。任侠における高倉健に熱いものを感じるのは、死をかけた自己犠牲行為をすることにより、高倉健がコミュニティ内での自分がなにものであるかを強烈に獲得し、コミュニティとの絆を強くするからであり、その高倉健に自己投影し、小さなアウラを獲得するからである。しかしこれは、三島的自決であったり、自爆テロの構造と同じであるのだが・・・



「上から二冊目の本」効果

「上から二冊目の本」は、小さく「私は唯一の私でありたい」という欲求を満たすのである。この典型が、処女信仰である。処女は、性行為によって失われる唯一性を保有している。そしてそれが信仰となるのは、そこに価値が見いだされると言うことである。

たとえば現代では、アイドルヲタ、またロリヲタなどであるが、「上から二冊目の本」が示すのは、現代において「私は唯一の私でありたい」という欲求を満たすのは多くにおいて消費がになっているということである。

さらに「上から二冊目の本」的なものは世界に溢れている。たとえばオリジナリティへの信仰である。スポーツの記録、ギネスブック、コレクターのオリジナルものなど、様々な時間軸上の「はじめて〜した」ものには、価値が持たれる。

「小さなアウラ」の獲得は、生きていることの充実感そのものを支えており、いわば人の行為そのものは多かれ少なかれ、そこへ繋がっていると言えるだろう。