社会はなぜ「幼稚化」するのか

多層なメタ的言説が交差する社会


現代、人々は多層なメタ的言説にさらされている。たとえば誰かが「それは〜である。」といえば、それはその言葉のままの意味ではない。「彼が「それは〜である。」といったのは〜のためである。」というメタな読みが求められる。発言、行動は、多層な言説として解体して、理解する必要がある。

これは単純な本音/建前の構図ではなく、「リアリティ」の問題である。たとえば、都会にでてきた「田舎もの」は、他者とのコミュニケーションの中で、どれが本音であり、なにを信用すべきかわからないだけでなく、他者とリアリティをもって関わることことができない。物理的な地域差による情報格差がなくなりつつある現在では、「田舎もの」という言葉も死語になりつつあるが、たとえば2ちゃんねるに初めてやってきた「田舎もの」は、そこで行われているコミュニケーション場に適応するのに時間がかかり、それまでにある種の洗礼を受けることになるだろう。

メタ的言説を解読するには、絶えず新しい情報を入手し続けなければならない。誰もがそのような情報に疎いために、排他的な劣等感を味わう場面に出くわしているだろう。それはかつて重要視された学校教育や教養として知識ではなく、簡単にいえば、「流行もの」である。たとえば、世界地図をイメージできない女子高生よりも、いまだにナウいなどの言葉を使っているおじさんの方が、社会的な不適合者という排他性を味わう可能性が高いのである。

人々は積極的に情報を取り入れて、新たなメタの言説を解読し続けることによってのみ、他者と「リアリティ」を共有し、、コミュニケーションが可能になる。しかしそれ故に、メタ言説解読のためにたえず情報収集しなければならないという強迫観念によって、人はある種のストレス下に置かれることになる。



「女子高生」という社会的な強者


ある意味において「女子高生」が社会的な強者の位置におれる理由の一つが、ここにある。彼女たちは学校教育や教養として静的な知識に価値を求めず、動的な知識=「流行もの」に敏感であることによって、社会的な強者となりえている。

しかし「女子高生」が社会的な強者となりえている理由は、逆説的に彼女たちが社会的な弱者であるためだ。現在の男尊女卑社会において、彼女たちの位置は微妙である。彼女たちは学校に行きながらも、知識を身につけ、賢くなることを必ずしも求められない。男性のように学校で良い成績を取り、良い大学に入るという一元的な価値観のもとに置かれない。彼女たちに求められるのは、男性に好かれるために「幼稚」でありつづけることである。幼稚であり、無邪気であり、男性を安心させ、男性に選ばれることを社会的な圧力として受けているのである。

社会的弱者としての彼女たちは、高校生という大人になることと幼稚でありつづけることの矛盾した位置におかれている。そして誰もがそこに矛盾があることを知っているが、それは社会的なタブーである。だから彼女たちは甘やかされ、社会的な強者のふりをすることが許されているのである。



「癒し」という一方的な所有願望


彼女たちが幼稚であることを求められるのは、単に男性に好かれるためだけではない。子供として社会的圧力から解放され、また大人として行動の自由度が許されるつかの間の時期にあり、社会全体の認識として、「今は甘やかされていいだろう」という暗黙の了解がある。そして多層なメタ的言説により疲労している社会全体が、彼女たちが「癒し」な存在であることを望んでいる。

「癒し」とは、多層的なメタ的言説をもたず「単層な言説」のみをもつ相手とコミュニケーションすることによって得られる安心感である。相手が何を考えているかを、絶えず気にかけている必要がない存在である。かつてそれは「神の言説」であった。神の言葉には裏がなく、疑うことなく信じればよかった。そこにリアリティがあったのである。

現代ではアイドル、萌え、ロリコン、女子高生、ペットなどの「幼稚さ」へ求められている。多層なメタ的言説に消耗した人、メタ言説に適応できない弱者は、「幼稚さ」という寛容への信仰に向かう。それは分かり合いたいことの渇望である。多層的な言説の中で、見失った他者とのコミュニケーション、そして孤独な状況において、単層な言説もつものとならば、深くコミュニケーションできる、分かり合えるだろうという願望である。

だから女子高生がほんとうに「単層な言説」しか持ち得ていないということではなく、子供は無邪気で無垢であってほしいように、幼稚で、単層的であってほしいのである。ペットとあたかも深く繋がりあえているように溺愛する姿の滑稽さや、話したこともないアイドルへの傾倒、萌えと言われる願望も同じ滑稽さがある。幼児を誘拐し連れ回すオヤジなど。

それは一方的な錯覚であり、抑圧的な所有願望である。自分のいうことを聞くだろう弱いものを服従させるようとする暴力が潜んでいる。そして多層的なメタ言説の中で勝者になりたいという脅迫観念からの逃避でしかない。だからそのような願望を越えて、単層的な言説をもつ他者が本当に現前化した場合には、回避される。単層な言説をもつものは分かり合えるだろう存在ではなく、野蛮であり、面倒で、扱いにくいものだからだ。極端な場合には、望むように服従しないために幼児虐待までに繋がる。




「幼稚さ」へのフェティシズム(物神化)


ヲタクは、社会的な多層なメタ言説を生きることを避ける傾向である。他者回避し、単層に作業化された「マクドナルド化する社会」を好むのである。極端な場合には、現前化する生身の女性との多層なコミュニケーションよりも、単層なアイドル、萌えへと向かう。一般的な人々に彼らが異様に写るのは、異なるリアリティの世界に生きているためだろう。しかしそれが単なる逃走ではないのは、新たなリアリティを形成しようとする傾向があるためだ。このようなヲタク的スタンスは、より複雑になる多層的なメタ言説の社会を生き抜く知恵かもしれない。

そもそも他者とリアリティを共有しあえることが幻想であるならば、ある種の小さなコミュニティを形成し、コミュニティに強く帰属し、そのコミュニティにおけるリアリティを勝ち取ることが、現代を生き抜く一つの形といえるかもしれない。そして単層的な「幼稚さ」へのフェティシズム(物神化)を基底にコミュニティへ帰属し、共有されたリアリティを獲得するのである。

女子高生やコギャルなどのコミュニティも単に女子の高校生ではなく、そのファッションなど「かわいいぃ〜」という「幼稚」なものへのフェティシズム(物神化)を通したコミュニティへの帰属意識を高めている。


なぜ2ちゃねらーは悪態をつくかの理由もここにあるかもしれない。2ちゃんねるは、多層なメタ言説の極限である。その会話は何かを伝え会うというよりも、メタ位置の取り合いである。他者のよりメタへメタへと発言を繰り返す。ここまでくると、その発言の後ろに何らかの確かな情報があることさえ無意味である。「おまえはDQNだ」「おまえは馬鹿だ」「広末は淫乱だ」そこにはなんの根拠もない。単に、おまえのその発言の意図は分かっているぞ!というメタ的な言葉が繰り返される。そこには「幼稚にメタ的な発言をする」というスタイル自体が一つの「リアリティ」となり、コミュニティへの帰属を支えているといえる。

モーヲタというロリコンコミュニティが2ちゃんねる内で巨大な勢力になりえたのは、ロリコンへのフェティシズム(物神化)と「メタ的な発言をする」スタイルが、「幼稚さ」を基底にうまく融合することに成功し、そして強固なコミュニティへの帰属意識を形成している。もはや彼らにとってモーニング娘ファンであることは、モーヲタであることに先行しないだろう。

韓流のブームも、ある種の「幼稚さ」である。多層で複雑な言説を前提として発散する日本のドラマに対して、単層な言説によってできている韓国作品、およびそこに登場する韓国スター像は、ある意味で「幼稚」である。情報化社会に乗り遅れたおばさま方という弱者への癒しという価値を持ち得るのである。


ボクですか、彼女は微妙にロリ系で癒されますが、なにか・・・・