(2ちゃんねる哲学板)「人間」とはなにか?

1 :考える名無しさん :04/10/18 13:57:17
20世紀を境に大きく変わったと言われる、哲学の人間観について考えてみませんか?

5 :考える名無しさん :04/10/18 14:39:03
ニーチェ以前の哲学では、人間は人形みたいなもんだった。真善美に沿って生きるのがいいですよといえば、その通りに生きるのが人間だと哲学者は本気で考えていた。・・・とは思えないけど、哲学はそれを説いていた。

9 :考える名無しさん :04/10/18 20:07:23
正直、実存主義とかが出てくる以前は、あまり人間のことは考えて来なかったんだと思う。人間を客観的に見ることができなかったのかも。

12 :考える名無しさん :04/10/19 00:52:13
人種差別が一応表世界からなくなったり男女平等が浸透しはじめたりしてから、まだ100年も経ってないんだろ?一体、それまで何やってたんだ?

15 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :04/10/19 01:08:15
逆にいうと、民主主義とか、人種差別廃絶とか、一夫一婦制とか、男女平等とかも、一つの選択肢であり、思想でしかないということですね。これらの平等思想は、果たして現在イデオロギーとしてでなく、根付いているのか。たとえば、もてる男は数股かけるとか、金持ちと貧乏とか、男女の賃金差とか、現実とイデオロギーの違いには差があるということですね。
 
そもそも「人間」とは、動物ではない、理性的なものということです。しかしそれは動物から人間、そして神へのヒエラルキーに支えられている。人間にも当然、階層があるということなんですね。たとえば、裕福で、教育を受けたものが、理性的という意味での人間なんです。だからかつてのすばらしい哲学家であっても、普通に社会的な差別意識を持っている。教育を受けていない、貧乏人は同じ人間ではないんです。現に彼らは無知なんです。きっと教育を受けた人にはとての馬鹿に見えたでしょう。そして下級民は、生まれたときから、へつらうようにしつけられていた。そして疑いなくそれを受け入れていた。それが変わったのが、教育制度の充実ですね。それは物質的な豊かさという産業革命以後のものでしょうね。そういう意味で、20世紀を境に「人間」が大量に生まれたということができるのかもしれません。

18 :考える名無しさん :04/10/19 01:16:39
戦争・暴力はいまだに表世界からなくなっていないね。一体、今までなにをやってたんだろう?

20 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :04/10/19 01:20:05
差別することの方が、人間の根元だからじゃない。

23 :考える名無しさん :04/10/19 11:04:11
昔は、(といってもつい最近まで)、人間は1種類しかいないと考えられていたんだよ。もう、頭もよくて倫理観もある完璧超人ね。それに少しで近づくことが、人間の課題だった。それとあまりに遠すぎた人は、人間ではない異端児として迫害されることになった。正しい生き方も1種類しかなかった。でも、実存主義が出てきて、そうじゃないよってことになった。人間というのは存在してるだけで人間なんだよってことをサルトルなんかが言いだした。つまり、絶対的な正しさが崩壊したんだ。こうやって生きるのが正しいという枠組みが壊れて、どう生きてもいいんだとみんな気づいた。敗戦直後の日本では実存主義の思想が急速に広まった。(らしい)今までの天皇制が崩れて、信じるものを失って焼け野原に投げ出された日本人は、自然と実存主義者になるしかなかった。

24 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :04/10/19 11:17:48
「人間」はエクリチュールの中にいた。エクリチュールを操れことが人間界の大前提だね。だから哲学家もそのような人間界の話としてさまざまな思考を繰り返したわけで、そこでは下級層は当然のごとく、排除されている。現代はだれもがエクリチュールを操れて、なかなか区別ができないから、表だって差別しにくい世の中になった。しかし本来、差別のない社会というのも不自然。みんな他者との差異をめざして生きているわけだからね。それは現代人のストレスかもしれない。民主主義という平等は個人の自由を重視するわけで、それは現代、自分なりの道を見つけることを強いている。いわば自由であることを強制する社会。自立した幸せを確立することを強要する社会。これが現代の大変なところだね。

現にボクらは民主主義のイデオロギーほど平等な機会の上にいない。生まれたときの容姿、性格、身体差は確実にあるし、家庭環境の違いもある。がんばればなんとかなる、夢を持ち続けろ、どこにもいない自分をめざせ、といわれても、なんともならないことも多々ある。男女平等といわれても、平等ではないし、一夫一婦性といってももてるやつは何股もする。

ようは、現代は自由、自立、個人、すなわち利己性という強度にあまりにとらわれすぎているのではないだろうか。世界の根源は利他性にある。差別は利己性によってでなく、利他性によっておこなわれる。いじめは利己的におこなわれない。みんなのためにを、捏造する。なぜなら、いじめる側はコミュニティから排除されることに恐怖しているからである。ユダヤ人差別も、自己のコミュニティから排除されることから逃れるために、自己のコミュニティのためとしておこなわれた。

35 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :04/10/19 12:38:45
しかし最大の問題は、差別が人の本性であると認めてしまうと、差別そのものを肯定してしまうという倫理的な問題になる。そしてこの対峙は、現代、科学と倫理で行われている。生物学、心理学は「人間」というものがどこにもいないことを暴露する。そして倫理側を支えるのは宗教である。ここにはいままさに激烈な闘争がある。そして哲学は倫理側にいる。

36 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :04/10/19 12:44:36
では差別は人の本性として、いかにそれを否定すべきだろうか。民主主義という自然の摂理に反するイデオロギーを肯定することができるのだろうか。

37 :考える名無しさん :04/10/19 12:48:54
人がお互いの差異を認め合うための哲学が必要なのだよ。それは絶対真理を希求する古い哲学でもなければ、ポスト構造主義でもなかろ。

42 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :04/10/19 13:05:01
互いに認めあうか、哲学よりも宗教的すぎないかな。わしはむしろテクニカルな問題だとおもう。差別を抑制するように教育する方が、社会が円滑に運営されて、みんなにとって「経済的」でしょう。まあ、これはアメリカニズムで、いまやぼろぼろだけど。それでも世界スタンダードはテクニカルにしかないんじゃなかろうか。功利主義すぎかな。

哲学板規制議論ではないが、テクニカルな解決も問題あるか・・・。人は思うほど功利的でなく、利他的だからね。イラク人みてると、もうよくねぇ、とりあえず自国の治安は善くしようよ、と功利的に思ってしまうが、利他的に走る彼らはそれでは止められないんだね。哲学板の規制派もまさに同じ構図だな。彼らは利己的でなく、みんなのためにという利他的であるが故に、排他性を捏造し、敵を捏造し、過熱する。