(知識社会 その1)なぜ「不気味なもの」たちだけが生き残るのか? 

pikarrr2004-10-21


学問のフェティシズム(物神化)

2ちゃんねる哲学板でここ2、3年間、不定期に続く哲学板の規制議論は、様々な意味で示唆的である。ID表示の導入、ローカルルールの明文化、板分割などについて規制議論行われるのだが、規制をかけすぎると自由な雰囲気が損なわれるという意見と、板が荒らされているからもっと厳しい規制をかけようという意見の対立がある。これは、本来、荒らしが問題なはずなのに、いつも「直感的哲学」派「体系的哲学」派の対立の構図に還元されていくのである。

「直感的哲学」派とは、学問的な哲学にこだわらず、広い意味の命題を哲学と考えて、自由に思考しようとする人たちであり、「体系的哲学」派とは、学問的な知識を身につけることを目的する人たちである。直感的哲学派の会話は雑談も込みでどんどん進むのに対して、体系的哲学派の会話は学問的な知識についてのためにレスが付きにくく、彼らは板が荒れることに敏感なのである。

ここでとてもおもしろいのが、直感的哲学派よりも体系的哲学派の方が、正当派であるように振る舞われていることである。そして体系的哲学派は、直感的哲学派を「マイ哲学」派と侮蔑的に呼ぶ。ここには「転倒」がある。体系的哲学派が、言っているのは、体系化された知識を学ぶ先に、世界との対峙があることではなく、体系化された知識を学ぶということそのものが「哲学」なのである。

しかし現代の知識社会では、このような「転倒」はもはや一般的かもしれない。そこにあるのは、フェティシズム(物神化)の一形態であるといえる。そして体系化された専門的な知識が正しく、正当性を持ち得ているという信仰である。それ故に、体系的哲学派の方が直感的哲学派よりも正当派なのである。



「マイ哲学」という不気味なもの

体系的哲学派の優越感は、このような体系知識信仰からくるだけではないかもしれない。多量な情報にさらされるボクたちは、何らかのカテゴライズに依存しなければ、コミュニケーションすることが困難になっているのだ。だからコミュニケーションとは、タチコマのように各自もつ東浩紀のいうような意味での「データーベース」を同期させることなのである。

直感的哲学派は、哲学知識が少ない人が、「生きている意味とは?」「悟りとはなにか?」などのテーマを議論しつづけている。そこで共有されているのは、おそらく漠然とした生きていく上での不安である。そして、そこで行われる密接な、閉じたコミュニケーションは、外部からはコミュニケーション不能=すなわちデーターベースが共有されない、不気味な他者への恐怖を感じるのである。いわば電車の中で一人ごとをいいつづける基地外への恐怖に近いのである。



「不気味なもの」だけが生き残る

しかし「マイ哲学」派と体系的哲学派は、多かれ少なかれ、同じ穴のムジナではないだろうか。たとえば、現在、体系的な哲学知識というのは、社会的にどの程度認知されているだろうか。趣味的にで哲学をする体系的哲学派も、また社会的にはマイノリティなのである。「なぜ哲学に興味をもったのか?」ということには、社会的に認知されにくく、コミュニケーション不能=すなわちデーターベースを共有できない不気味な他者という側面があるのだ。体系的哲学派は、自分自身が不気味なものであると知っているが故に、「マイ哲学」派を不気味な者であると排他するのである。これは一般的な「差別の構造」である。

オタクであり、2ちゃねらーであり、コギャルなどなどは、不気味なものである。たとえば理系はなぜもてないのか、にも同じような排他性がある。不気味な者は、社会的に相対的な価値であるが、特には独自のデーターベースを持ち、また構築し、コミュニティとしての帰属を強くする集団は、不気味である。

さらにネットにおいては、このような傾向は増す。匿名の他者とコミュニケーションするという極限において、カテゴライズされた場所を検索し、カテゴライズされた他者を検索し、データーベース同期できるコミュニティに閉塞する。それは「多層なメタ的言説が交差する社会」*1において、世界とのリアルな関わり方であり、「不気味なもの」たちだけが生き残るのかもしれない!?


ボクですか・・・みんなが「マイ哲学」派っていうんですが、そんな不気味かなあ・・・あっ!そうか!だからこのブログにはあまりコメントが付かないのか!(切腹