(知識社会 その2)自由はなぜ勝ち得たのか?

pikarrr2004-10-25

 
自分が何ものかというフェティシズム(物神化)


ボクが示したのは「人は根源的に、自分がなにものであるかの、承認をもとめている」ということである。それ故に承認してくれているコミュニティを捏造する。

現代では、自分がなにものであるかは、生産および消費活動によって満たされる。商品はコミュニティへ帰属するパスポートとして機能する。商品の先にあるのは、それを購入することによって、その先にあるだろうコミュニティへ帰属し、自分がそのコミュニティに帰属するものであるという承認を得るのである。たとえばシャネルを買うことによって、シャネルコミュニティの一員=シャネラーとして承認されるのである。ここにあらわれる物への信仰は、マルクスが言うところのフェティシズム(物神化)」である。

私がなにものであるかを求めることは、ヘーゲルの言うところの、欲求でない欲望である。欲求は満たされるが、欲望は満たされることがないのは、私が何ものであるかは、完全に承認されることはないからである。空腹はマックグラン2個食べれば満たされても、シャネルを一つ買うことによって、欲望は満たされない。シャネルコミュニティに帰属し続け、シャネルコミュニティの中でも特別であり続けようとするために、シャネルを購入しつづけなければならない。



テクノロジーは欲望を加速させる


「私がなにものであるか」を加速させたのがテクノロジーである。テクノロジーとは、世界の数量化である。数量化とは還元主義である。ルネッサンスにはじまる数量化革命は、「世界」を数量化しはじめる。価値を数量へ還元する。重さ、容量、長さ、そして時間である。街の中心の塔に時計をつけたのは、都市化によって財力をえた商人である。彼らの目的は労働時間の管理であり、労働価値を時間に還元し、貨幣に還元したのである。

世界は数量化によって還元された価値体系のネットワークに組み込まれる。そしてある物の価値は、ある物に対する相対的な価値、すなわち「差異という価値」としてあらわれる。これによって、対象間の価値の同期が可能になるのである。

そして還元主義は機械論的世界を繋がる。私は誰でもよい私、だれでもかわりのきく私という偶有的な存在と見なされる。それ故に逆説的に、私は私であるという欲望が、加速されるのである。他者との差異を見いだそうとする「差異化運動」であり、消費によるフェティシズム(物神化)が加速させるのである。

「私とはなにものであるか」と問いをより満足させるために、ある他者と限りなく同じであるところの差異を見いだすことである。それによってより複雑に私が何ものがであるかを、規定することが可能になるのである。

たとえば現代の電子メールの発達による欲望の加速構造をみてみると、私の世界と他者の世界は、切断されたものであった。それが携帯という商品を買うことによって、どこでもアクセスできるテクノロジーは、二つをつなげてしまった。それはそれぞれの世界を価値のネットワークに組み込むことである。

そして実際にどれだけアクセスするということではなく、容易にアクセスできるという可能性によって、欲望を加速させる。誰かが楽しくコミュニケーションしているのではないか、そして自分は取り残されているのではないか、という不安が生まれる。そこにはすでに、価値のネットワークによる自分が帰属する記号コミュニティが捏造されているのである。

そして「差異という価値」がそこに生まれる。そして私が私であることはそのコミュニティに帰属し続けることであり、コミュニティ内の他者との差異を見いだし続けようということである。

欲望はテクノロジーに先行しない。テクノロジーが差異の体系を作り、差異の価値=欲望を生むのである。



フェティシズム(物神化)は知識社会へ向かう


ベルやドラッカーは、現代はかつての資本主義ではなく、知識社会へ向かっているといった。価値を生むのは有形な生産物ではなく、デザインや情報などの知識であるということだ。そして大量生産に支えられたマルクス的な資本家>労働者の搾取の構造は、解体されていくといった。

知識社会はフェティシズム(物神化)のさらなる発展である。テクノロジーがデジタル、そして情報化へ向かうことによって、「私は私でありたい、私は私である」という欲望をさらに加速される。

フェティシズム(物神化)の対象としての商品が有形である場合には、多様性には生産技術上、コスト上の限界があった。しかし無形の知識へと移ったとき、多様性は格段に広がったのである。容易に、安価に、誰でも多様な商品の生産が可能になったのであり、欲望は加速された。

このとき、労働も生産技術上、コスト上の限界から解放され、一握りの資本家が管理することから解放される。だれでも安価に資本家になることができ、また個人の知識は、容易に代替可能な労働から、誰かでなければできない労働を生む。

これがすぐに「搾取の構造」の解体とは言えないかもしれないが、単純な資本家>労働者の構造ではなくなっているのは確かである。すなわちマルクス的のフェティシズム(物神化)が、マルクス的搾取の構造を越えていくのである。

同じようにテクノロジーを中心に据えたにも関わらず、共産主義よりも資本主義が成功しえたのは、共産主義が、テクノロジーが加速させる非生産的な欲望を抑圧したのに対して、資本主義が非生産的な欲望を容認することによって、より複雑に、あなたはあなたであることが名指しすることを可能にしたことによるのではないだろうか。

たとえば、オタクは知識社会を生きる先鋭的な人々であると考える。かれらのフェティシズム(物神化)は、ややもすると現実逃避と言われるぐらいに、知識に特化したものへ傾斜している。彼らが二次元女性は向かうのは、実社会にいる有形の女性たちを選択することでは、彼らの「私は何ものであるか」という自意識は満足できない。より自在に加工可能な情報化された対象をのぞむ。それによって差異化運動をさらに加速されることが可能なのである。

知識社会においては、現前的な他者との関係よりも、フェティシズム(物神化)的な消費という商品との対面が「私は何ものであるか」をより満足させるのである。

アニメは世界的にもメジャーになりつつあるが、それは実写制作ではコストがかかる、実現不可能だからアニメにしているのでなく、アニメそのものもつ世界、すなわち情報操作の容易性という可能性そのものが、オタクを含めた世界の人々のフェティシズムを引き付けるのであり、それが資本主義的な知識社会の傾向である。



資本主義的自由の転倒


資本主義の成功は、フェティシズム(物神化)を満足させる可能性の増加によるものである。そして多くにおいて、自己と商品とのマテリアリズムな関係性が強調されている。功利主義的な成功が、「自立した理性的な、故に自由な主体」を達成するように描かれている。

しかしここに「価値の転倒」が見られる。フェティシズム(物神化)の本質である利他性は隠蔽され、功利性へそして利己性へと転倒されているのである。ボクたちが求めているのは単純に功利性ではないし、利己的に満たされることではない。ボクたちは限りなく利他的である。誰かと、誰かのために何かをすることを望んでいる。たとえば利己的に描かれることが多いオタクも、決して功利的でも、利己的でもなく、利他的である。

フェティシズム的な自由とは、商品選択の可能性の増加であり、承認される他者選択の可能性の増加であり、それによって、私は何ものであるかという選択の可能性が増加するのである。

しかしそれを自由と呼ぶことができるだろうか。ボクたちの欲望が先行し、テクノロジーを操っているわけではない。先行するのはいつもテクノロジーであり、そこに生まれる新たな価値の「差異の体系」によって、ボクたちの欲望は生まれ、加速されているのである。

資本主義的な自由と反して、内的には、個々人の社会的な孤立、地球的環境問題があり、外的には民族的闘争がコントロールできないのはそのためである。



グローバリズムという中毒


資本主義的な正義とは、「あなたは唯一のあなたである」ということであり、個人の自由、個人の唯一性の重視であり、基本的人権と呼ばれたりする。しかしここにも「価値の転倒」が見られる。「私が唯一の私である」ためには、他者に承認が必要である。

イラン戦争にしろ、最近の民族的な闘争において、資本主義的正義に対立するところに、古い民族的な、宗教的なコミュニティがおかれる。それらの共同体の利他性思想は、個人を古いコミュニティへ強制的に帰属させるものとみられる。そして資本主義的な正義が抑圧を解放するという物語が語られる。

しかしグローバリズムという形で、資本主義的な正義が勝ち得ているのは、古い民族的な、宗教的なコミュニティよりも、利他性を満足する構造を持ち得ているからである。

資本主義の世界への増殖=グローバリズムは、貨幣による生産/消費活動が、「あなたはどこにもいない唯一のあなたなんだよ」と覚醒させることである。そこにあるのは正義ではなく、利他性を満足させ、そしてさらなる利他性への欲望を加速させるという、消費への中毒によっているのである。

かつての日本でもそうであったし、少し前では中国でも見られたように、「マクドナルド」というグローバリズムの初上陸が途上国で祭りになるのは、まさにこれを象徴しているのではないだろうか。