(知識社会 その3)なぜ「トリビア」はおもしろいのか?

「純粋なクイズ番組」の消失


かつて、クイズ番組とは純粋に知識量を競うものであった。しかしいまこのような「純粋なクイズ番組」として残っているのは、「パネルクイズ25」ぐらいだろうか。なぜ「純粋なクイズ番組」は消失したのだろうか。

かつての「純粋なクイズ番組」には、街の物知りが番組につどい、競い、誰が一番知識量が多いんだというガチンコなダイナミズムがあった。それを見る人は、おれが出たら、こいつよりももっといけるぞ!という興奮があったのだ。ボク的に言えば、「純粋なクイズ番組」というコミュニティに自分を帰属させることによって、「(そのコミュニティという差異の体系の中で)私はなにものであるか」を獲得できるリアリティがあったのである。

しかしこのようなクイズ番組のブームは、学生のサークルとしてクイズ同好会が作られるなど、解答者がプロ化してきたのである。プロ化するということは、クイズ番組の知識がなにものであるか、メタ的視線で見るこであり、ほんとうにガチンコに無数にある知識をクイズにすると、だれも答えられないのであり、クイズ番組は、解答者が「答えられるようで答えられない」「答えられないようで答えられる」程度の知識が選別され、作られているということが暴露されたのである。

そしてクイズ番組の知識は、プロによってクイズ番組に勝つための知識として体系化され、結局、「純粋なクイズ番組」の勝者は、ボクらの代表でなく、プロ化された人たちになり、「出題されるのは、われわれに身近な様々な知識であり、解答者はわれわれの身近は人々である」という、視聴者がもつクイズ番組への神話=リアリティは解体されたのである。

これはテレビ番組全般におこった、ポストモダン的なベタ化した神話を、メタの視線が、解体することの表れの一つである。

かつて視聴者はテレビが映し出すものを「リアル」なものとして受け入れていました。そこにはメタレベルの情報をもつTV製作側と、視聴側という情報権力の二重構造がありました。しかし次第にそのような構造による番組ががベタ化しはじめたとき、視聴側はどうもこれは「嘘くさいな」と感じるようになってきました。

このような状況の中で、ひょうきん族に顕著なお笑い芸人たちは、新たな笑いを求めて、TV製作側のメタレベルの情報をぶっちゃけはじめました。楽屋ネタを積極的に語ることによって、かつてのベタ構造を解体しました。これは結果的に、制作側/視聴側の権力構造の一部を解体することとなりました。

このような視線は、TVのベタ構造が崩壊したということだけではなく、大衆の社会的な「リアリティ」全般をも解体、構築し社会的な新たな「リアリティ」を生んだといえるかもしれません。日本で80年代に起こったこのようなTVの脱構築は、ポストモダンの流れに位置づけることができのではないでしょうか。
「なぜ加藤浩次は走らなければならなかったのか」id:pikarrr:20040807


平成教育委員会」とうアンチテーゼ


このような純粋なクイズ番組の解体の流れの中で、クイズ番組は知識量を競うものからエンターテインメント性の高いバラエティに変容していく。その中で、知識量を競うクイズ番組として、リアリティを確保するために模索され、成功した新たなものとして、平成教育委員会をあげられるのではないだろうか。平成教育委員会には、かつての「純粋なクイズ番組」にあった、知っているか、知らないかというガチンコなダイナミズムが確保されているように感じる。

平成教育委員会は、誰もが学ぶ「学校教育という体系化された知識」を競う番組である。これはベタ化した「純粋なクイズ番組」「体系化されたクイズ番組用の知識」とは異なる体系を元にしている。さらにそれは「純粋なクイズ番組」のように、プロ化されにくい。「学校教育という体系化された知識」は、クイズ番組として勝つという目的よりも、さらに重要な「社会的なヒエラルキーを決定する知識」という社会的リアリティに根ざしているのである。

しかし平成教育委員会がリアリティを獲得し得たのは、そこにさらなるメタ視線が導入されていることである。それは、「知識がいかに無駄であるか」という視線である。それも「社会的なヒエラルキーを決定する知識」が無駄であるか、ということである。

平成教育委員会の根底には、いつも受験戦争を卒業した大人からみれば、「社会的なヒエラルキーを決定する知識」が、いかに実社会において無駄であるか、というメタ視線がある。学校教育的知識へのシニカルな視線であり、パロディであり、知識全般へのアンチテーゼである。すなわち「純粋なクイズ番組」へのリアリティの喪失そのものが、平成教育委員会のリアリティを確保しているのである。



トリビア」というリアリティ


さらに繋がるのが、少し前から、流行っているトリビアの泉うんちく王などのいわゆる「無駄知識」ブームではないだろうか。ここではすでに「知識が無駄である」と言ってしまっている。単に知識であるだけで、有用であるという言説は崩壊している。だから知識を笑ってしまおうという視点がある。

しかしこれは、反「知識」的傾向ではない。現代はまさに「過激な知識社会」であるが故に、知識は消費され、体系化(ベタ化)され、そして「体系化された知識」は、体系化されたとたんに陳腐化し、リアリティが喪失するのである。そしてメタ的に「ベタだなぁ」「無駄なあ」ということによって、無駄知識のリアリティは確保されるのである。

知識はベタ化→メタ的解体→・・・・という循環を繰り返し、このような新陳代謝によってリアリティを確保しつづけるのであるが、ポストモダンは知識を供給する情報技術というテクノロジーの発展が、消費への欲望を加速させて、このような循環速度が加速度的に速まっているのである。


ボクですか、基本的にトリビアの泉はほとんど見ません。「不気味なものたち」への優越的(メタ的)笑いが苦手なんです・・・まあ、TVってそういうものですけどね┐(´ー`)┌