(知識社会 その4)なぜ知識は管理できないのか

「知識社会」


ネット上を見ると知識が溢れている。便所の落書きなどと言われようと、ブログなどを見渡しても、世の中でこれだけの、知識溢れるテクストを作れる人間がいて、それ流通することは、歴史上ないことであろう。教育制度の普及、そしてそれを支える豊かな社会の賜物である。

そして現在の情報化社会では、消費は有形材から無形材であるデザインや情報へ向かっている。これが、ドラッカーやベルなどの経済思想家たちがいう「知識社会」である。ドラッカーによると、「知識と情報は異なる。知識とは、情報を仕事や成果に結びつける能力である。そして知識は、人間、すなわちその頭脳と技能のうちのみに存在する。」ということである。

従来の生産では、大量生産による低コスト、そこでは労働者は容易に代替可能な労働者であり、資本家>労働者の関係からあった。しかし知識社会では、知識を管理し、生産することにが、企業が生き残っていく重要なことである。そこでは知的労働者は代替可能なものではなく、才能のある労働者は、企業内で権力をもち、資本家>労働者の単純な構造は崩れるだろう、ということである。



知識へのフェティシズム


しかし「知識」が消費であるならば、そこにあるのはフェティシズム(物神化)である。それは、利己的に、あるいは功利的に、「より少ない行為でより多くの結果を求める経済性の追求」ではない。知識の消費は、「私はなにものであるか」の承認を超越的に利他性へ捏造するという、信仰的で、そして遊戯的で「非経済的」なものである。

このような知識の非経済的な、遊戯的な、無駄的な特性を、管理することは可能なのだろうか。たとえば安い、特性が良いという機能の経済性が消費されることに重要ならば、企業は比較的容易に生産目標持ちやす。しかしこれが現在の様々なブームのように何が当たるのかわからない、というような状態では、企業は明確な生産目標を持ちがたい。知識社会とはそのような流動的な社会である。

さらに労働においても、かつてには勤勉な労働者が有用であったが、現代では勤勉な労働者が必ずしも有用ではない。勤勉さと結果を出すことは異なるのである。

MOT (Managrmet Of Technology, 技術経営 )などの手法がもたはやされても、成果を上げられないのは、知識の信仰的で、そして遊戯的で「非経済的」故である。それを管理する有用な方法は未だないのである。すなわち現代において、経済性という基準において、消費とは多くにおいて無駄なのであり、知識とは多くにおいて無駄なのである。


ボクですか、知識スーパーサラリーマンですよ・・・( ̄ー ̄)vニヤリッ