(知識社会 その5) なぜボクたちは利己的であるように振るまうのか? 

知識というシステム


「知識」と言う言葉を容易に使ってきたが、その中に様々なものを詰め込んできたように思う。では、知識とはなにか、と考えてみる。まず情報との違いであるが、情報とは「意味あること」である。ある対象に対して、有用であるか、無用であるかでなく、そこに「意味がある」と見いだされたときそれは情報になる。そういう意味では情報とはシニフィアン(表記)とシニフィエ(意味)という、「言語」である。そしてその情報が体系化され、相対的な位置を与えられたものが「知識」ではないだろうか。そして体系の中必要に応じて、知識は取り出され、活用されるのである。

現代は、情報社会である。と言うときには、多量の情報が溢れ、交通していること、そのようなことが可能な環境にあることを表している。そして経済学者ドラッカーは、「知識と情報は異なる。知識とは、情報を仕事や成果に結びつける能力である。」といういい、現代を「知識社会」と呼ぶ。ここでは「情報社会であるから、それをいかに知識として活用するかが、重要である。」というスローガン的な意味合いが込められているのだろう。

現代は、知識が商品として価値を生む社会である。そして商品としての知識は、体系化された「静的な知識」だけでなく、デザイン、感性などの創造的な「動的な知識」に価値がもたれている。この知識の静特性とと動特性は、一つの知識システムに内在する。知識ははじめはいつも創造的で、動的である。そのような知識の動きの中で、一部が体系化され静的な位置を持つ。学習とは、多くにおいて体系化された知識の静特性を習得することである。



知識システムの加速化


かつては知識は多くにおいて静的な姿をしていた。知識民は少なく、情報伝達速度も遅い。そしてそこでは知っていることが価値をもちえた。知っていることそのものが知的であった。それが権威主義という権力の基盤にもなりえたのである。

このような静的な知識信仰は、近代的な合理主義、理性信仰である。弁証法的に知識は時間とともに進歩し、最終的な真理へへ向かっていると考るのである。ボクが「自由はなぜ勝ち得たのか?」id:pikarrr:20041025で示したのは、テクノロジー(数量化)が、フェティシズム(物神化)を満足させることによって、人々の信仰を勝ち得た姿である。

そして静的な知識信仰は我々を桃源郷へつれていってくれると楽観的に考えられた。しかしテクノロジー信仰がまず破綻したのが、二つの世界大戦である。それでも欲望を加速させた人々は、テクノロジーを放棄できない。それが現在の情報化社会へと繋がっている。現代、知識民が大量に排出され、情報伝達速度が加速されることによって、知識システムの新陳代謝は活性化され、動的になっている。そして知識の本質である非経済的、遊戯的な欲望が露呈してくる。



知識へのシニシズム冷笑主義


ボクが「なぜ「不気味なもの」たちたけが生き残るのか?」id:pikarrr:20041021で示した、2ちゃんねる哲学板の学問哲学派と「マイ哲学」派の対立は、静的な知識と動的な知識の対立に近似するのではないだろうか。そして現在も学問哲学派に見られるように静的な知識は根強く信仰されている。

現代においても静的知識体系の権威は失墜したわけではない。なぜなら科学技術そのものが、近代的な合理主義の上に築かれているからであり、ボクたちの豊かさはそれによって可能になっているからである。

たとえばみんなテレビは大好きである。しかしテレビがなぜ写るのか、など興味はない。スイッチを押せばつく、それだけでよいのである。テレビから流れる情報に興味がある。そして個人的な趣味もあるが、遊戯的、非生産的な番組がすきなのである。そして遊戯的なタレント(才能)を信仰するのである。

ボクが「なぜ「トリビア」はおもしろいのか?」id:pikarrr:20041026で示したのは、知識という権威が、「こんなくだらないことに必死になっている。それは無駄だろう。」という静的な知識へのシニカルな視線である。

知識システムがダイナミックに振るまう中で、古い静的な知識が陳腐化している、あるいは動的であっても、静的へ体系化されたとたんに陳腐化する姿である。理系がもてず、哲学ずきが不気味で、「ファション、デザイン、ソフト、流行などの動的で、遊戯的で、非経済的なダイナミックな知識が信仰され、乗り遅れることは、シニカルな笑いにさらされる。「カップル」を「アベック」といっていますオヤジのように。

ボクが「なぜ知識は管理できなのか」id:pikarrr:20041028で示したのは、そのような現代的なダイナミックな知識システムの遊戯的で、非経済的故に、とらえどころがなく、飼い慣らすに手こずっている姿である。

さらに現代、知識は細分化に向かってい、それぞれの専門的な知識の体系=データーベース間のコミュニケーションを難しくしている。そしてコミュニティは閉じている。お互いが他のコミュニティの意味不明さを、電車の中で独り言を言う人のごとく、「不気味なもの」と呼はれるのである。知識体系=権威でさえも、「不気味なもの」でしかない。



weird is survival


このようなシニシズムは、メタメタメタと多重化する知識システムのダイナミッズムに対峙するもっとも無難な対応方法であるといえる。さらには他者とのコミュニケーヨンを放棄し、利己的、個人主義的に振る舞う。それが、とても現代的なボクたちの姿であり、また「ボクは人のことなんてどうでもいい。自分が大切なんだ。」という言葉そのものがシニカルなのである。

しかしボクたちはまたシニカルで居続けることはできない。いつまでも流行を追い続けることができないし、コミュニケーションを否定することはできない。いつかはどこかの静的な知識に帰属し、「私とはなんであるか」を見いだそうとして、リアリティを勝ち取ろうとする。このような「ナイーブさ」と「シニシズム」は共存するのである。ボクらはみな多かれ少なかれ、「不気味なもの」なのである。そしていかにうまく「不気味なもの」に帰属するかが、重要であるともいえる。

ジェイムソンが書いているけど、現代において、あらゆるものが社会的に構成された虚構であって何事にも根拠づけられていないとする構築主義と、絶対的な根拠を信奉し希求する本質主義とが共存している、一方で文化左翼みたいな人たちが徹底的な反本質主義になって「真理なんか存在しない」と言っていて、もう一方で原理主義者たちが、特殊な真理を絶対化しているように見える。同時代のこの二つの傾向の対立的な共存が、いま一つ理論かされていないという気がします。

恐ろしいのは、究極のシラケと熱狂的な没入とが表裏一体であることです。つまり、別にバカなやつが原理主義者になって賢いやつが構築主義になるわけじゃなくて、一人でその両方を持っているみたいなね。先にジェイムソンに託して述べた二つの対立的な傾向の間には、通底性があるわけです。

(文学界 2004.11 「絶えざる移動としての批評」 大澤真幸


ボクですか、ニヒヒヒヒヒ・・・