なぜ「やらない善よりやる偽善」なのか?

pikarrr2004-11-03


2ちゃんねるという善意

最近どこの本屋にいっても電車男の本が、もっと見やすいところにおいている。評判も上々のようで、かなりの冊数売れているのだろう。また2ちゃんねるで、新潟県中越地震の被災者の方々を支援する活動が起こっているらしい。

これらは、いままでの2ちゃんねるに対する、アングラ、不気味、モラルがない、悪意などのイメージとは異なる姿を示している。そもそも2ちゃんねるの悪い評判はマスコミによって作られたことが大きいだろう。これは2ちゃんねるがモラルがなし」ということは、「渋谷は風紀が乱れている」という言説と似ている。2ちゃんねるに問題がないということではなく、それは2ちゃんねるの多様な面の一面を切り取っているだけである。

「何かについてわかる」とは、多様な面の多量な情報を手に入れ、理解することではなく、情報量を縮減し、印象的なものへとカテゴライズすることである。人はこの世界の無数の対象それぞれに多量な情報を記憶することはできない。対象ぞれぞれはカテゴライズして「わかって」いく必要がある。

そしてマスメディアは、人々に魚の骨をとって食べやすくしてあげるように、情報を縮減しカテゴライズしてあげることを仕事としているのだ。そして往々にしてコマーシャルな切り取りは「過激なもの」が好まれる故に、切り取られるのである。

たとえば前回のイラク人質事件に対する、2ちゃんねる内にある混沌とした様々な意見から、自己責任論や人質への誹謗中傷が、切り取り、コマーシャルされたのである。



善意の偽善性


電車男や、新潟県中越地震の被災者支援などの善意も2ちゃんねるにもともとある一面なのだろう。それでも2ちゃんねるらしいなと思ったのが、新潟県中越地震の被災者支援のスレッド題「やらない善よりやる偽善」 http://news18.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/9245555001 である。

ここに2ちゃんねるらしいバランス感覚を見ることができる。「やらない善よりやる偽善」とは、このような支援が「偽善」であるといいきってしまっている。そして善意を行うことの難しさを示しているのである。困っている人のために何かをするという利他性は、それは本当に困っている人のために行われているのか、自分のためという利己的に困っている人を利用しているという視線がつねに忍び込むのである。

たとえば、よく言われるが、毎年行われる24時間テレビというチャリティー番組の偽善性である。なぜあのように年に一度のお祭り騒ぎをしなければならないのか?あのような日本中で行われる募金活動にかかる費用はいかほどか?人々からお金を集めるよりも、運営にかかる費用、およびスポンサー料をそのまま寄付する方が高額なのではないか?それは、視聴率を上げる、テレビ局の、スポンサーの好感度をあげるなどに、善意を利用しているのではないのか?ということである。つぎつぎに登場するタレントは、チャリティーの主旨を理解して参加しているのか。そこに参加することによって自分への利益(たとえば好感度をあげる)などの打算的な主旨はないのか。タレントがマラソンを行うこととチャリティーになんの関係があるのか。なぜ感動が演出されなければならないのか。

このような偽善性は、単純に善意を行うものが意図的に演出するということだけではなく、善意そのものにいつも絶えず入り込んでいるものである。



消費されるイラク人質事件


たとえばイラク人質事件が再び起こったが、そこでボクが気になったのが、再び起こった自己責任論争ではなく、そのような論争自体が前回とは比べ物にならないくらい少ないという事実である。ブログ界隈にしても、前回あれだけ、熱く語られた自己責任論と対決姿勢、誹謗中傷への反論が、2ちゃんねるで前回ほど盛り上がらないことと同期したように、盛り上がってないということである。これは前回の善意の発言も、単にブームに乗っていただけではないのか、という疑問がわく。

前回は日本人が初めて、人質事件に巻き込まれたときに起こったヒステリックさは、初めて身近な「コミュニティ」の人間が巻き込まれることによって、TVの中のリアリティがない暴力的で、不条理なイラク戦争の世界が、リアリティをもって迫ってきたことによる恐怖から来ていたのだろう。

その後、イラク関連で日本人が殺されたこともあり、人々はそのような恐怖にヒステリックになることもなく、なれてしまったのである。そして今回の人質事件は前回ほどの反響を生まなかった。慣れとは人が生きていく上で不可欠な生理現象であり、現代、人々は様々な刺激を次々と消費していくのである。

前回理性的に言説で、人質を養護した善意の人々に対しても、本当はイラク戦争の問題、自己責任論における人権的な問題には、それほど興味などなかったのでは?結局ブームにのっただけではないのか?ブログのアクセス数を増やしたいだけではなかったのか?周りから善意の人だと思われたかっただけでは?ブログのネタがないから取り上げただけだろう?という偽善性に対して、それを完全に否定することはできないのであり、またそもそも偽善性のない善意など存在しないのである。



なぜビートたけしは着ぐるみを着つづけるのか?


たとえば、ビートたけしはなぜ着ぐるみを着続けるのか?彼は、ベネチアで賞を取ろうが、人々に尊敬されようが、着ぐるみを着つづけることによって、「なにをえらそうに、所詮おまえは芸人だろう」というメタ的な言説を先取りしているのである。「所詮おれは芸人だ」という視線をたえず提示し続け、それでもあえて真剣に発言し、映画を作るということによって、リアリティを保持しているのである。

現代は、このようなメタ的視線を持ちながら発言することが求められている。だからイラク人質事件にしろ、単に善意を、正義を語る言説は、「所詮、偽善だろう」というメタ視線にさらされ、リアリティを持ち得ない。

ボクは「人は誰かのために生きることを望んでいる。」っといったが、このような利他性はメタ視線からの偽善性への疑問が忍び込み、純粋な利他性を保持することはできない。現代の情報化においては特にその傾向が強い。それ故に、人は利他性など偽善だ、利己性こそが人の本音であるというシニカルな姿勢によって、リアリティを確保するのである。



2ちゃんねるという脱構築装置


ネットというコミュニケーション速度が速い世界では、この傾向は顕著になる。ある言説に対してそのメタ的な言説がつぎつぎと発せられる。それが激化したものが、2ちゃんねるであり、メタメタメタと吐き捨てられる発言は、極度のシニカルへ至る傾向にある。

マスコミ、特にTVは公共性が高い故に倫理性が重視され、「善意の大衆」という視線が絶えず保持される。いわば現代の倫理性はTVが保持しているといってもいいのではないだろうか。それ故に、2ちゃんねるは、「善意の大衆」に潜む偽善性へメタ的な発言をつっこみ続ける趣向性をもつ。このような特性をボクはデリダ的な脱構築装置」と読んだ。それは、多くがいい加減であったり、罵倒であったり、悪意であったりしても、偽善性をつっこみ続ける姿勢において、2ちゃんねるがマスメディアとしての価値をもつ理由ではないだろうか。

イラクの人質事件にしろ、地震被災者支援にしろ、「発言に偽善性があることを承知しているが、それでもあえて私はいう」というメタ視線を持たなければ、言説自体にリアリティを持たすことは難しいのである。「やらない善よりやる偽善」とは、「そうさ、ここには偽善性は排除することなどできないさ、そんなことは分かっているよ。偽善と呼ぶなら呼ぶがいい、それでもやらないよりやった方がいいと思うんだ。」ということである。

電車男は読んでいないので分からないが、想像すると、電車男に人々がリアリティをもったとすれば、そこにある善意の物語にたえず、偽善性というメタ視線も混在させながら、進んでいるからではないだろうか。



ボクですか、「きみの発言そのものが、偽善性を認めることによってリアリティを確保しようということによって、リアリティを確保しようという戦法だろう」?いえいえボクは単なるしがない偽善の第三者ですから・・・