なぜ島田紳助は泣いたのか?

pikarrr2004-11-06


まなざしの快楽

最近、街中でTVドラマの撮影しているのに出くわした。タレントは篠原涼子一人で演技をしていた。(おそらくドラマ「マザー&ラバー」http://www.ktv.co.jp/mother/だと思う。マザコンっぷりがおもしろく結構見てる。)平日の昼間で、パラパラと立ち止まって通行人が見ていた。ボクは、篠原涼子の1m側を通り過ぎたのだが、ボクは特別彼女のファンでもないが、えらくドキドキした。それは彼女と目があったらどうしよう、というようなドキドキであった。そして彼女は撮影の合間で、スタッフと話をしたりして、回りの人々と目を会わさないようにしているようだった。

今週、NHKの番組で、小柴昌俊博士の楽しむ最先端科学」脳科学〜脳はどう意識を生むのか?」で、茂木健一郎氏が先生となり、子供たちに、得意のクオリアを中心に、私とは、知能とは、などの脳科学の話をしているのを見た。

クオリア自体はとても現象学的であるが、最近の傾向としては主観的な研究から、他我問題ともいえるコミュニケーションの問題へと移っているとのことだ。その中でおもしろかったのが、最近の研究で、人はアイコンタクトによって他者に自分が認識されたときに脳内でドーパミンが分泌されて快感を感じる。自分が好んでいる人に認識されるほど反応が大きいらしいということがわかったということである。

人は生理的に、先天的に他者に承認されることを望んでいる。ボクが篠原涼子のファンでなくとも、やはり彼女はTVでよく見る特別な存在である。そのような他者とアイコンタクトできることは大きな快感を生むということであり、「まなざしの快楽」である。




儀礼的性関心


ボクは以前儀礼的な性関心」ということをいった。これは、「まなざしの快楽」に根ざしたものかもしれない。

かわいい女性を見ることは、まったくもって「喜ばしい」ことである。あの喜ばしさはどこからくるのだろうか。簡単には性欲がちょっと満たされるということになるのだろうか。ゴフマンによるとわれわれは儀礼的無関心の世界で生きているということだ。沈黙の世界にも他者とのコミュニケーションが成立しており、それが場の秩序を維持しようとしている、ということである。

このような沈黙の場においても、性関係の力学は働いている。それは儀礼的無関心世界に内在する一つの力です。仮にそれを儀礼的"性"関心」と呼べば、街の中で異性がすれ違う瞬間に、男性はかわいい女性を「捜している」。それは「捜す」いうには、あまりに受動的な行為であるかもしれないが、見つけてみることで、小さな「喜び」を得る。

しかしこれは単なるのぞき見ではない。一つにはそれは女性に意識されることを望んでいる。こちらが見ていることを、相手にも気づいて欲しい、こちらを認識していほしい、ということである。そこに相手が気づき、その中に「小さな好意」を見つけることを目的としている。

「女子高生のスカートはなぜ短いのか」http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20040708

ゴフマンの儀礼的な無関心の空間で、男女関係にはその秩序を崩さない程度の儀礼的な性関心」がある。たとえば街を歩いていて、かわいい子が歩いていると、見てしまうが、ただ見るだけではなく、その彼女もこちらをみて見ていることを認識して欲しいと願い視線を送る。女性も無関心的儀礼の中で見られることは、自分がかわいいということへの承認であり、快楽ではないだろうか。これは見つめ合うようなことではない。ほんの一瞬の出来事であるが、それが「まなざしの快楽」の交換である。



「まなざし」の捏造


このような「まなざしの快楽」は、実際に見られていことを確認したときにだけ生まれるのではないだろう。「私は見られている」という自意識が快楽を生む。おしゃれをして街にでることの楽しさは、実際にどれだけの人が彼女をみるかではなく、「今日はいけているからみんなにみられるだろう」というまなざしの捏造が快楽を生む。

ブログを含めたネット上のパーソナルなテクストは、報酬がないにもかかわらず、精力的に製作されている。これを支えているのが、「見られている」ということである。ネットは公開され、だれでもみることできるという技術的な可能性が、「誰かが見ている」という希望的可能性を増幅させる。そして「誰かが見ている」可能性は、技術的な可能性を越えていく。それはかつて「ネットに公開すれば、世界中の人がみることができる。」という神話を捏造した。いまはその神話は陳腐化したが、それでもブロガーは神話を捏造している。それは「私がみられたいと思う人が見ている」ということである。

行為を含めた広い意味でのコミュニケーションでは、だれもが「見られたい人」が見ているように捏造している。たとえば、誰かと話をしていても、それは目の前の話し相手と話しながら、「見られたい人」に向け発信されている。あるいは、目の前の他者へ「見られたい人」を投影している。たとえば星飛雄馬が幸せなのは、野球という打ち込めるものがあるからではない。「自分が見られたい人」(ライバル達)に見られているという強烈な実感を味あうことが出来ているからである。
「ブログはなぜ書かれるのか」http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20040713#p1

恋人たちの快楽とは、物理的に目と目が会うということだけではない。彼は私のステディーであるということ、側にいなくときでも私のことを強く意識してくれているだろうという「まなざし」の捏造が快楽を生んでいるのである。たとえば子供ができて張り切るパパは、子供のまなざしによってハッスルするのである。

「まなざしの快楽」とは、他者との関係性、コミュニティの中の位置によって、私が何ものである承認される快楽ではないだろうか。だから社会関係において、ボクたちは様々な人とまなざしを交換し、さらに交換されているように捏造して、私が何ものであるかの承認を得ているのである。



島田紳助のまなざしの先


最近、島田紳助の暴行事件」http://www.geocities.jp/shinsuke20041026/が話題になっている。ボクも紳助の涙の記者会見は見た。ネット上でも様々なこと言われている。世間に同情をかうためのパフォーマンスであるなど。しかしボクは紳助の涙は「本当の涙」だと思っている。ただそれは、被害者の女性に向けられたものではなかったかもしれない。

あの時点では、紳助にとって、被害者の女性の挙動は、もはや問題ではなかったかもしれない。訴えられた以上、自分は法的に罪に問われだろう。そして罪状自体はたいしたものではなだろう。それよりずっと社会的な制裁の方が大きい。そしてそれはもう被害者の女性に関係なく、避けられない。

しかしさらに紳助にとって、社会的な制裁さえも問題ではなかったかもしれない。謹慎になり、多くの番組を降ろされたとして、すでに金銭的に困らないのではないだろうか。

紳助ぐらいの立場になれば、番組づくりに深く関わり、一出演者というよりも、番組制作の長である。だからどれだけの人々が自分の番組に関係しているか、彼らがその後の対応にどれだけの苦労をするか、分かりすぎるほど分かるはずである。こんなつまらないことで、彼らにどれだけ迷惑をかけ、期待を裏切ってしまった申し訳なさ、自分の不甲斐なさ。紳助にとっての問題はそこにあり、紳助の涙の意味だったのではないだろうか。

紳助のまなざしの先にあったのは、このことによって迷惑をかけた人々の顔ではないだろうか。それは、いつも自分を見てくれているだろう人々である。

しかしまた彼が「自分勝手な、自分なりの吉本への愛社精神、自分なりの正義」から女子マネージャーへ暴力をふるったとき、彼の中に、みんなからの「まなざし」があったのではないだろうか。「この無礼は、みんなの意見を代表して、おれが注意せねばならない。」そこにとても感情的なものがあったことは疑えなくても、まなざしは期待される(だろう)自分、期待される(だろう)正義、期待される(だろう)暴力を捏造するのである。


ボクですか、法的に島田紳助氏の罪を疑う人はいないでしょう。それでもボクは「心象的に」女マネージャーさんよりも、紳助氏に同期しやすく紳助擁護派です。でも、今後また一から再帰するほどもう芸能界に未練がなさそうで、このまま引退しちゃうんじゃないかなとも思います。むしろ女マネさんの方が今後「まなざし」の中生きていくのは、大変そうですね。いらぬ心配ですが・・・