なぜアンガールズのおもしろさがわからないと欠落感を感じるのか (まなざしのネットワーク その1)

pikarrr2004-11-15


知ればしるほど欠落していく何か


最近、またお笑いブームで色々でているが、その中の一組、アンガールズがおもしろいとちょこちょこと、若い女性などから聞いたりする。よく「だれだれはおもしろくないよ」というときには、これは好みの問題だったり、食わず嫌いだったりする。しかし困った?ことにボクにはアンガールズのおもしろさがまったくもってわからない。もし仮にボクがお笑いの審査員で、アンガールズが審査を受けに来たとすれば、「しろうとの方がもっとうまいだろう。そもそも笑いとして成立もしていない。」として即不採用だろう。アンガールズがおもしろいと思えないからといって、別に困ることもないが、それでもアンガールズがおもしろいと言うのを聞くと、ボクの中に決定的ななにかが欠落しているように感じてしまうのである。

お笑いの楽しみ方は、まず何かが起こることが大前提である。その意外さの切り口が、予測したものを越えてくるときに、おもしろいのである。たとえばダウンタウンはその切り口が意外さとともに、鋭く暴力的、狂気的であり、急激な緊張と緩和が生まれる。今回のお笑いブームではドランクドラゴンなどは意外さの切り口がおもしろいと思う。

アンガールズは売れない芸人らしく栄養失調?の二人が、ぼそぼそとショートコントをする。そしてそのネタはどうもそのような「法則」に基づいていないようである。意外な切り口の前で突然終了する。だからお笑いとしても成立していないように感じるのである。

おそらくボクがアンガールズの面白さがわからないのは、すでにボクの中に、「笑いとは!」という「正しさ」があるが故、アンガールズの笑いがわからないのではないだろうか。たとえばこれはラカン「盗まれた手紙」のテーゼにも繋がるかもしれない。警察は捜すことにたけている。故に「私ならここに隠すだろう」という「正しさ」によって手紙を捜すために、目の前ある手紙を見つけられないのである。

すなわち人は経験として正しさを獲得していく。しかしそれ故にその他の「正しさ」を受け入れる可能性が失われていくのである。そこに笑いがあるだろうという「正しさ」が、他の笑いを受け入れる可能性を見失わせているのかもしれない。




「笑いの正しさ」の差異


ニーチェは系譜学によって、「正しさ」の作られ方を指摘した。さらにそれを内的に構造化される仕組みを明らかにしたのがフーコーである。有名なパノプティコン(一望監視施設)で明らかにしたのは、人は「見る/見られる」の関係を不均等に配分することによって、他者のまなざしを内部に組み込み、自分自身を拘束する、ということである。それは規律権力と言われ、「正しさ」が形成される仕組みにもなっている。

このような構造はパノプティコン(一望監視施設)のような監獄でなくとも、社会一般のことではないだろうか。人は自分であるために、他者に見られているというまなざしを捏造する。そこには「見る/見られる」の構図において絶えず見られるというまなざしの過多による不均等がある。このような「まなざしのネットワーク」が、社会的な秩序を保っているといえる。よく言えば、「正しさ」を共有し、コミュニケーションを可能にしている。、悪く言えば、「正しさ」を監視しあっているのである。

たとえば儀礼的な無関心」という空間は、無関心をよそおいながら、まなざしが交差し、場の秩序を保っている。さらには一人でいるときにも、秩序であり、正しさは保たれるのは、過去に「正しくあれ」と教育されたまなざしを人は内的に組み込んでいるためである。

ボクの「笑いの正しさ」も、まなざしのネットワークによる経験としてボクに内在している。そしてボクの「笑いの正しさ」を内在しているために、アンガールズの笑いがわかるまなざしのネットワークから排除されているのである。そしてアンガールズがおもしろい人たちと「正しさ」の差異があり、ディスコミュニケーションに陥る。それは知っている、知らないというディスコミュニケーションでなく、たとえばジェネレーションギャップのような内的な「正しさ」の違いである。




「共有されない」という共有性


しかしさらに複雑なのが、アンガールズのおもしろさが、「正しさ」の共有ではなく、「正しさ」の差異によるものにあるように思えることである。そもそも彼女たちは、アンガールズ「笑いの正しさ」を共有し、ネタの内容そのものがおもしろいというよりも、アンガールズが彼女たちの「正しさ」との差異がある「不気味なものたち」である故に、おもしろいのではないだろうか。それは「おもしろい」というよりも、むしろ「楽しい」あるいは、「かわいい」ではないだろうか。

若い女性たちが、きもかわいい、ぶさいくかわいい、おやじかわいい・・・と、なんでも「かわいい」というのは、彼女たちが馬鹿であるように言われるが、「正しさ」の差異までも楽しもうという逞しさにあるのではないだろうか。

現代のまなざしの状況は、たとえば、パノプティコンの仕組みについて知っている囚人にパノプティコンは効果があるか」、ということである。「まなざしのネットワーク」より先に情報として「正しさ」が流通している場合に、「見る/見られる」の不均等な関係は成立せずに、「正しさ」として内在されない。

そしてさらには、まなざしの構造を知っているが故に、まなざしをコントロールすることが可能になる。見せたいように見せるというまなざしのメタ化である。そして「正しさ」が、共有されているのか、共有されたように演じられているのか、わからなくなる。

このような「正しさ」が多様化した社会では、「正しさ」の共有のみにコミュニケーションを求めることはできない。「正しさが共有されないこと」をも共有するというメタレベルのコミュニケーションが必要になる。それが「(わけがわからなくて)かわいい」ということではないだろうか。「かわいい」という感覚的なのは、規律よりもより人の根源の生理的なものに共有性を求めるからではないだろうか。

彼女たちが「かわいい」というときに、ボクが「正しさ」として「かわいい」を理解しようとしても、そこには「正しさ」はなく、理解できないのである。それは、「正しさがない」という状況を受け入れ、「正しさ」がないという正しさ」を楽しむことが必要なのであり、しかし「笑いの正しさ」がすでに内在しているボクには、アンガールズは笑えないのであり、それは重要なことでなくとも、決定的な欠落なのである。


ボクですか、彼女にたまに「かわいいぃ〜」と言われますが、意味がわかりません・・・