エロティシズムはなぜ強者なのか? (まなざしのネットワーク その2)

規律訓練型社会から環境管理(アーキテクチャー)型社会へ


ボクは社会的な「正しさ」が、フーコ的な規律「まなざしのネットーワーク」の弱体化によって、規律なものから、人に根元的な生理的なものに移っているといった。

現代のまなざしの状況は、たとえば、パノプティコンの仕組みについて知っている囚人にパノプティコンは効果があるか」、ということである。「まなざしのネットワーク」より先に情報として「正しさ」が流通している場合に、「見る/見られる」の不均等な関係は成立せずに、「正しさ」として内在されない。

そしてさらには、まなざしの構造を知っているが故に、まなざしをコントロールすることが可能になる。見せたいように見せるというまなざしのメタ化である。そして「正しさ」が、共有されているのか、共有されたように演じられているのか、わからなくなる。

このような「正しさ」が多様化した社会では、「正しさ」の共有のみにコミュニケーションを求めることはできない。「正しさが共有されないこと」をも共有するというメタレベルのコミュニケーションが必要になる。それが「(わけがわからなくて)かわいい」ということではないだろうか。「かわいい」という感覚的なのは、規律よりもより人の根源の生理的なものに共有性を求めるからではないだろうか。

「なぜアンガールズのおもしろさがわからないと欠落感を感じるのか (まなざしのネットワーク その1)」http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20041115#p1

フーコーが指摘するように、権力が「正しさ」を作ると言う意味では、この「正しさ」の変化は、多くの思想家が指摘するものである。

規律訓練型社会から環境管理型社会へ

規律訓練型権力・・・ひとりひとりの内面に規範=規律を植えつける権力、価値観の共有を基礎原理にしている。

環境管理型権力・・・人の行動を物理的に制限する権力、多様な価値観の共存を認めている。ネットワークやユビキタス・コンピューティングは、よく言えば、多様な価値観を共存させる多文化でポストモダンなシステム。しかし悪く言えば、家畜を管理するみたいに人間を管理するシステムでもある。

ジョージ・リッツァマクドナルド化する社会」・・・人間の「動物的」な部分に訴えかける管理。「動物的な限界」を、いかに有効に活用して社会秩序を形成するのか、それが今の社会の大きな方向。

自由を考える 9・11以降の現在思想 東浩紀大澤真幸(2003)」http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20040515




アーキテクチャーの優位性


なぜ現代の共有性が生理的なものへ訴えかける環境管理型(アーキテクチャー)へ向かうのか。まず一つは、先に指摘したように、情報化社会では、「まなざし」がメタ化し、「まなざしのネットーワーク」が単一な「正しさ」を共有することが難しくなっている。もはやパノプティコンパノプティコンとして機能しないのである。現代、規律を支えた「まなざしのネットワーク」は弱体化したとき、より人に根元的な生理的な共有性へ向かっているのではないだろうか。

さらには、情報化そのものが、アーキテクチャーを誘導することが考えられる。たとえば車を運転しているものに対して、「危険だから運転速度を落すように管理する」場合に、「危険だから速度を落せ」あるいは、「時速80km制限」と人の規範へ訴えかけるの対して、道にカーブをつけて、気が付かない内に運転者が速度を落とすようにし向けるというアーキテクチャー管理の違いが考えられる。

規範による管理では、まず制限速度などを人に理解してもらう必要があり、人の理解能力の処理情報量、処理時間に拘束される。運転中に「危険だから速度を落せ」あるいは、「時速80km制限」以上の情報量を運転者に提示しても、人は処理することができないだろう。

それに対して、道にカーブをつける場合には、人の理解をもとめず、人は意識しないままに、直接人の生理反応=反射へアクセスする。このために人が理解する処理能力、速度に拘束されず、より多量な情報を高速で与えることができるのである。そして現代の統計的、シミュレーション的な情報技術の発達は、管理をカーブの設計の細かい調整によって多量の情報として込めることができるのである。




「性の装置」


フーコーは18世紀末の西洋で、優良な「種」の保存という目的から、性を抑圧する「性の装置」が形成されたと考える。これは国家権力からの抑圧ではなく、「まなざしのネットワーク」による「正しさ」の一つとして、「性への欲望」を律する内的なまなざしとして作成されたといった。

しかしエロティシズムがそこにあり、それが抑圧されたのではない。フーコー「性の装置」が形成される前は、性はそれほど抑圧されてはいなかったと考える。そして「性の装置」によって、「正しさ」という秩序が形成され、その他が抑圧されることによって、「正しくない」ことが明確になった、エロティシズムそのものが形成されたといった。とても単純な例であるが、アフリカ原住民の女性が乳をあらわにして生活しているが、それは隠されるまではエロティシズムとならないのである。

すなわち性の正しさは「まなざしのネットワーク」によって作られ、それはまたエロティシズムを作ることに繋がっている。




エロティシズムの台頭


このような規律的な抑圧によって生まれたエロティシズムは、アーキテクチャーへの移行によって、生理へ訴えかける共有された力として解放され始めている。エロティシズムは、「まなざしのネットワーク」を崩す人のまなざしを引きよせる強い力であり、規範的な秩序を崩す力を備えているのである。

しかしこれはたとえば、多くの人が女子高生のミニスカートに視線をうばわれるというような単純な力関係ではない。現代においては、女子高生は経験的に、パノプティコンの仕組みについて知っているのであり、まなざしをひきつけるようにコントロールするのである。彼女達は自分達がまなざしを浴びる存在であること、そのまなざしがなにものであるかを知っている。

現在における強者とは、若い女性にかぎらず、強くまなざしを引き寄せ、まなざしが引き寄せられることを知って、まなざしをコントロールする=「正しさ」をコントロールするような者である。このような意味で若い女性は社会的な強者として君臨し、なにごとも「かわいいぃ〜」と生理的な言葉で言い切れる「逞しさ」に繋がっているのではないだろうか


ボクですか・・・はい、エロティシズムの虜です・・・・