なぜディズニーランドは楽しいのか?(前半)

pikarrr2004-11-18


「生理的な快楽」「まなざしの快楽」


「タバコを吸う」ということの快楽について考えてみましょう。タバコに含まれるニコチンは、脳の細胞に働き、快感をもたらすと言われています。そして中毒性があるために、ニコチンが切れるとイライラします。「タバコを吸う」ということは、このような生理的な快楽によるものです。

しかしそれだけではありません。たとえば未成年が「タバコを吸う」ときには、生理的な快感を求めるというよりも、「タバコを吸う」こと自体が、社会のルールを破る、そのような危険にビビらない、というような反社会的なかっこよさによるものです。また映画の誰々がかっこく吸っていたから、あのような吸い方で自分の吸うというようなこともあります。

このような「タバコを吸うということの快楽」は、まなざしの快楽です。不良の先輩が吸っていたのがかっこよかったように、いまの自分はまわりからかっこよく見られている、あるいは映画の中で俳優がかっこよく吸っていたと感じたように、タバコを吸うことによって自分が誰かにかっこいいと見られる、というような「まなざし」を捏造しています。

このように「タバコを吸う」快楽には、「生理的な快楽」「まなざしの快楽」が混在しています。そしてこのような快楽の両義性は、快楽の一般的なものでしょう。

斉藤環「文脈病」ISBN:4791758714「器質的主体」精神分析的主体」「主体の二重性」としてベイトソンラカンの二重性として表しています。 そしてボクもたとえば「なぜ人は「なんのために生きているか」と問うのか」http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20040923#p1において、個体性と自意識の二重性として示しています。




SEXの快楽


たとえばSEXについても同じことが言えるでしょう。SEXの生理的な快楽は、性器を舐められて、擦られて気持ちがよいというようなものです。しかしそれだけならば相手がSEXのテクニックがうまい方が良いのか、ということになりますが、SEXの快楽の多くはそれとは違うところにあります。

相手が、だれで、どのような状況でSEXをするかということが重要になります。それは倫理的なものだけでなく、SEXで味わう快感にも大きく作用します。たとえば、愛あるSEXが気持ちがいいと言うときには、私たちの中にあるSEXへのマイナスイメージによる「抑圧」が、愛している人とのSEXは正しいということで、解放され、快感を受け入れやすいということが言えます。ここでは、SEXに関する社会的な「まなざし」が捏造され、快感を感じる承認として作動しています。

しかしそれ故に愛がないSEXこそが気持ちがいいということもありえます。社会的な「まなざし」を捏造し、それを裏切ることによって、反社会的な「まなざし」を捏造し、隠微な快楽をえるということです。このように「まなざしの快楽」は多様な構造を持ちえ、SEXがメンタルなものであると言われる所以であり、SEXは生命の根元である生殖に根ざし、生理的な強烈な快楽へ繋がる故に、「まなざしの快楽」は、さまざまにどん欲な形を誘発してるといえるかもしれません。




「まなざしの快楽」の氾濫


情報化社会における情報の氾濫は、快楽を、そしてリアリティを大きく変えようとしています。マスメディアが繰り広げる多様な「広報」は、まなざしの「広報」です。恋愛ドラマにより恋愛とはこのようにすてきなものですと広報され、雑誌は最近のファッションはこんなにすてきなもの、デートスポットはこんなにすてきである、渋谷の街がこんなに楽しい、AVビデオはSEXはこんなに気持ちがいいと等々のまなざしの快楽を氾濫させます。

たとえば、シャネルを着る快楽には、寒さをしのいで暖かいなどの「生理的な快楽」はもはや意味がありません。自分がシャネルを来ている人をみてかっこいい、あるいはシャネルを来ている人をかっこいいという誰かのまなざしを、自分がシャネルを着ることによって、受けているというまなざしの捏造による快楽のみです。

たとえば、渋谷に行くことの快楽は、渋谷に行けば必要なものがそろっているということではなく、渋谷に行くと楽しいとマスメディアで広報されていたというまなざしが、渋谷にいくことによって、自分が楽しんでいるように見られるというまなざしを捏造するから快楽なのです。

たとえば、小さな子供の運動会で親がみなハンディーカム片手に熱狂することにもまなざしの快楽があるような気がします。子供の成長を記録するということだけではなく、「運動会でハンディーカム片手に子供に熱狂する親」はほほえましい、幸せな家庭であるというまなざしがあり、自分が「運動会でハンディーカム片手に子供に熱狂する」ことによって、まなざしの快楽を感じるのです。さらにそれは一人ではなく、多くの親が集まり、お互いにまなざしを交換しあうということが、競争となり、場として快楽を高めていているのでする。

たとえば、SEXをしているときのまなざしは、目の前の彼女の喘ぐ姿だけではありません。AVビデオのSEXしながらは見えない目線でも見ています。それはAVビデオのSEXをみて興奮したように、自分がSEXしているところを見られて興奮されているというようなまなざしです。これは、自分が見て、見られるという「まなざしのネットワーク」の中に帰属したことの快楽であり、「AVビデオSEX」という記号コミュニティへの帰属の快楽です。だからそのまなざしにおいてのSEXによる快楽は、SEXによる生理的な「リアル」な快感というよりも、AVビデオの中にあるだろう激しい快感を内的に再現しているともいえます。このようなリアルは、ボードリヤールのいうところの「ハイパーリアル」と言えます。




閉塞した「まなざしの快楽」の激化


禁煙、あるいはダイエットはどのようにすれば、うまくいくかと考えると、「まなざしの快楽」を利用することが良いのではないかと思います。どういうことかと言えば、禁煙は「好きなタバコをやめる」という快楽の禁止であり、「生理的な快楽」を絶つという生理的な苦痛をともないます。さらに「まなざしの快楽」の特徴は、その正しさが自分自身の一部を形成しているということです。タバコを吸うこと、吸い方が、私であるから、やめられないということがあります。

それを乗り越えるためには、より強い「まなざしの快楽」を捏造する必要があります。禁煙について知り、禁煙に愛着をもち、禁煙の「まなざしのネットワーク」に帰属します。誰かががんばっているから、負けないように、それ以上にがんばらなければという構造をつくります。

ネットで、自殺する仲間を作り、集団で自殺するという事件がありましたが、これも「まなざしのネットワーク」の捏造ではないでしょうか。人には生きるという「生理的な快楽」があり、死ぬということは、生理的に苦痛、恐怖を生みます。さらに生きることは正しいことであるという「まなざしの快楽」もあります。

これらを乗り越えるために、自殺することは「正しい」ということを捏造しなければなりません。そのために閉じた「まなざしのネットワーク」の内部で、「オークションの値段提示」のように危険な欲望の競争ゲームという差異化運動を加速され、自殺の「正しさ」を目指して深化していきます。

「まなざしの快楽」とは信仰である。宗教であり、イデオロギーです。たとえばオウムの内部とは、閉じた「まなざしのネットワーク」内の差異化運動のような状態だったのでしょう。そして彼らの中だけの正しさと社会的な正しさが出会うことにより事件が起きたのでしょう。

ひきこもりでも「まなざしのネットワーク」に帰属しています。まなざしは誰かと対面する必要も、コミュニケーションする必要はありません。主体がある対象に愛着を覚えるときに、すでに「まなざしのネットワーク」に帰属しているといえます。そして他者と現前せずに閉じたところで、差異化運動を深化させるときに、外部という社会からは理解しえないところにいることがあります。ひきこもりがよく自分なりの正当性によって理論武装するのはこのためです。たとえばストーカーは一人で好きな人とコミュニケーションすることなく、その人からの「まなざし」を捏造し、差異化運動を深化させます。




まなざしの過剰な快楽


渋谷にいること自体が特別であるというまなざしを内在するように働き、渋谷のいく前にもすでに楽しいのですが、しかし言ってみると、「だからなんだろう。」ということがあります。それはまなざしという捏造された快楽と、実際に体験することの快楽との差異があるということです。

たとえばあるロックグループの熱狂的なファンであったとして、彼らはルールを探るといういことでファン仲間では伝説の初ステージのライブハウスを見に行くとすると、行く前の興奮に対して、いざいってみると汚いなにもないただの店だったというようなことです。そこではまなざしの快楽は、ある種行き場のない空回り感を味会うことになります。その他の例では、数年間あこがれ続けた女性と、とうとうつきあえたとして、実際につきあってみると物足りない、というようなことかもしれません。

このような例はいくらでもあるでしょう。たとえば最新のPCが欲しくて、お金を貯めてやっと手に入れた。買ったときは嬉しくて仕方がないが、購入し、立ち上げると、その興奮を解消するだけのやることは特にありません。PCそのものは道具として、今後も役立つものですが、購入時の興奮を解消するだけの楽しさはそこにはないのです。だから特に必要でもないような調整を行います。

PC好きなど、マニアの快楽は、まなざしの快楽の過剰な先行にあるように思います。解消されない快楽が、ワープロとして必要、データ管理として必要というPCの利便性を越えて、一見不必要なディテールへの愛着へと向かうのではないでしょうか。




オタクの過剰な愛情


アイドルオタクなどはまったくの典型です。アイドルを好きになるということにの生理的な快楽、あるいは利便性はどこにあるのでしょうか。思春期の過剰な生理的な性欲の解消でしょうか。それよりもアイドルは一つのコミュニティと見た方がよいように思います。みなに欲望されているというアイドルへのまなざしを、アイドルへまなざしを向けることによって、自分へのまなざしとして捏造するのです。だからファンのつたないアイドルがTVの番組でて、様々なことをすることに自分ことのようにドキドキし、一喜一憂するのです。

そしてさらに現在では、2ちゃんねるモーヲタのようにアイドルへの「まなざしのネットワーク」が強固に形成され、「モー娘」記号コミュニティへ帰属し、コミュニケーションすることによって、まなざしの快楽は加速されるのです。すなわち「モーの加護ちゃんのファンであるということが、私が私である一部となり、さらにその他の「モーの加護ちゃんのファンとの差異化によって、さらに私は何ものであるかということを、複雑に規定されるような承認を求め、一見不必要なディテールへの愛着へと向かうという差異化運動が行われるのです。