なぜディズニーランドは楽しいのか?(中盤)

pikarrr2004-11-20


規律訓練型権力から環境管理型権力


フーコーは、ひとりひとりの内面に規律を植えつけ、価値観の共有を基礎原理にしている権力を 「規律型権力」と呼びました。フーコのいう権力とは、一部の権力者がどのように権力を行使しているかということではなく、人々がある対象を「正しい」とすることによって生まれる権力です。「まなざしの快楽」は、人が内面に植え付ける「正しさ」によって生まれる快楽であり、「規律型権力」と同じ構造を持っています。フーコーはさらに、人間の生を管理する権力を「生権力」と名付け、「規律型権力」と相補的に作動していると指摘しました。

フーコー「規律型権力」「生権力」を、現代的にアレンジしたのが東浩紀規律訓練型権力環境管理型権力です。東がここで語るモチーフは、現代、規律訓練型権力からくるイデオロギーや思想という「正しさ」が、現実と虚構の境目がないシミュラークルとなり、頼りないものとなっている。その中で、権力は情報管理システムによって、人を物理的に管理するような環境管理型権力へ移っているということです。

環境管理型権力の例として、ジョージ・リッツァのマクドナルド化する社会」の例が上げられてます。マクドナルドでは客が店を滞在する時間を管理するために、椅子を堅くする方法がとられている。これは、規律訓練型権力のように、長居することを規律として制限するのではなく、客は自分の滞在時間が管理されていると気が付かずに、堅い椅子という「動物的な限界」によって管理されているということです。*1




まなざしのシミュラークル


ローランバルトは記号意味には、見たままの意味=ディノテーションと無意識に伝わる意味=コノテーションがあると言いました。たとえばマクドナルドのコマーシャルは、ディノテーションとして、どのような商品があり、それがいくらであるというよりも、マクドナルドそのもののイメージ=コノテーションを伝えることが重要視されます。

このようなコマーシャルは、「環境管理型権力」の一種として、人に意識されるものではなく、無意識に生理的な層へ伝達され、自分が気が付かないうちにその商品を買うように誘導されているということは、良くあることです。

現代の情報化社会においては、マクドナルドの「正しさ」は、現実と虚構の境目がないシミュラークルとして作られ、それがすでに「まなざしのネットワーク」に帰属していることを意味します。

すなわち環境管理型権力は、情報技術によって、「まなざしのシミュラークル化」を加速させています。たとえば先にタバコの「かっこよさ」の例や、SEXの「気持ちよさ」の例も、情報技術が環境管理型権力として作動して、われわれの無意識へ働きかけて、シミュラークル「正しさ」を捏造しています。




まなざしのシミュラークル化は「他者回避」する


さらに東は、「規律訓練型権力から環境管理型権力へ」移るとともに、人は「欲望」ではなく「動物」のように「欲求」をみたそうとしていると言います。たとえば、人々は、マクドナルドのようなファーストフードや、ファミレス、コンビニのような他者と関わることが少なく場をもとめ、「動物」のように欲求をみたしている、ということです。

ボクはこのような「他者回避」を次のように考えます。シミュラークルな世界では、すでに主体は「まなざしのネットワーク」に帰属し、「まなざしの快楽」を得ています。「まなざしのネットワーク」は、主体によって見られたいように見られるまなざしであって、現前化する他者の存在は興ざめであり、回避されます。マクドナルドの店員はスマイル0円で、決められた対応するシミュラークルの一部であって、「他者」ではありません。

たとえば、店員が、ボクたちの前に現前化し、「あまり長いしないでください。」といってしまうことは、「まなざしのネットワーク」という場が崩れることを意味します。ボクたちは、現前化する「まなざし」が回避された、見られているに見られる「まなざしの快楽」を望んでいます。このために「環境管理型権力」の堅い椅子によって、自分たちも気が付かないうちに店から、退場させられることの方を望みます。




加速し、深化するまなざし

たとえばSEXの快楽では、テクノロジーは、性器を高速で舐める機械を発明するように、人の「生理的な快楽」を増幅させように働くというよりも、AVビデオを氾濫させることによって、無意識のうちに、かつては特異であったフェラチオやコスプレやセフレなどなどを「当たり前」とするように、SEXそのもののリアリティをシミュラークル化させ、「まなざしの快楽」を加速させます。

このような傾向は、テクノロジーが発展が情報技術を高度化させ、安価にしたことによって、環境管理型権力を誘発したためでしょう。そして環境管理型権力による情報技術は、人に意識させ、理解させるよりも、無意識へ働きかけることによって、もっと高速で、大量の情報を伝達することを可能したのです。

いままでのような現前するまなざしによる直接的な規律訓練型権力は、伝達される情報量が少なく、低速でしたが、環境管理型権力によって加速された規律訓練型権力のスピード感は、シミュラークルなリアルであり、快楽なのです。

このようなスピード感の中にいれば、「まなざしのネットワーク」に帰属しない他者は速度を落とすものであり、快楽を妨げるものであり、他者回避されます。「まなざしのネットワーク」において、差異化運動を加速させた内部と、外部の差異は、「まなざしのネットワーク」の境界をより明確にして、内部を閉じたものとします。それが、内部の熱狂(原理主義)と外部の冷淡(シニシズム)という構造を生んでいるのかもしれません。

恐ろしいのは、究極のシラケと熱狂的な没入とが表裏一体であることです。つまり、別にバカなやつが原理主義者になって賢いやつが構築主義になるわけじゃなくて、一人でその両方を持っているみたいなね。
(文学界 2004.11 「絶えざる移動としての批評」 大澤真幸