続 女子高生のスカートはなぜ短いのか その2 死の欲動(タナトス)か、生の欲動(エロス)か 

pikarrr2004-12-21



7.女子高生のミニスカートという「まなざしの快楽」


女子高生のミニスカートはエロティシズムを利用していますが、単純に男達を誘惑している、見られることが快感であるということではありません。彼女たちは私服の方がむしろスカートは長いのです。そして快感原則でいえば、むしろスカートを短くして足を露出する方が、苦痛なのではないでしょうか。それでも彼女たちが制服のスカートを短くするのは、それが「苦痛の中の快感」=享楽=「まなざしの快楽」だからです。

象徴界における「女子高生」には、社会的に認められた、学校で奨励されるルール=「正しさ」があります。これによって、女子高生の制服の着方も拘束されています。そしてこの「正しさ」にはたえず破る力が働きます。それは反抗、反逆という思想的なレベルではなく、生の欲望(エロス)という根元的な力として働きながら、さらに「ミニスカート」というシニフィアンとして、創発的に「女子高生」という象徴的なコミュニティ内の差異化運動として行われます。

このために、ほとんどの女子高生が同じ時期に、ミニスカートにするために、それは他者との差別化にならないのではなのか、ということがいえます。しかしこの「正しさ」からの飛躍は、他者と乖離した突飛すぎてはいけないことです。それはどこまでも「まなざしのネットワーク」への帰属内の運動として行われます。なぜなら欲望は他者の欲望であって、「まなざしのネットワーク」に帰属し続けることによってしか、「私」は見いだされないからです。

だから、ボクたちには女子高生がみな同じように見えていても、ミニスカートなどを含めて制服の着こなし、メイク、携帯の装飾、アクセサリーなど、各自が小さく、他者との差別化を行っているのです。そして、各女子高生の差別化のために重要なアイテムが対象aであり、そこに「まなざし」を浴びるだろう故に、そこに「命をかける」のです。

そしてこのような「女子高生」という象徴的なコミュニティは、女子高生自身の差異化運動や、マスメディアを含めた見る側のまなざしという動作が継続されることによって、「女子高生」というコミュニティを産出する「オートポイエティック」なシステムといえ、たえず変化し続けています。




8 溢るる汚物


これは、「女子高生」に限らずに、「まなざしのネットワーク」=象徴的なコミュニティ全般的の傾向でしょう。誰もが象徴界という「闘争」場において、根元的に欠落した「私」を補うために、コミュニティ内の差異化運動として「欲望」し続けて、それによって象徴的なコミュニティが産出され続けているのです。

それでも「女子高生」というコミュニティの魅力は、活発さにあるのではないでしょうか。絶えず人が入れ替わるという新陳代謝の活発さ、さらに生物的に「若い」という生の欲動が強い時期ということであり、「女子高生」として記号化されていく=「正しさ」が作られる中で、たえず彼女達がそれを破ろうと余剰が活発に溢れつづけています。

そしてさらにそれは単に活発であるだけではないかもしれません。たとえば人々が美人に引きつけられるのは、顔立ちが端正で、見ていて若々しい、美しい、からではないでしょう。人々が美人に引き付けられるのは、顔立ちの端正さ、清楚な振るまい故に、「溢れる汚物」が際だち、欲望するのです。そしてそこには根元的な他者性があります。どんなに美しい人であろうが、彼女は「他者」である=限りなく「私」であるということです。すなわち私の中にある「はずかしい」汚物性が、当然彼女の中にもあるということです。

「溢るる余剰」は、象徴界シニフィアンに回収されないもの、規則からはみ出すもの、既成の破壊であり、暴力であり、それ故に、社会的には、汚物であり、動物臭であり、歪なものとして表出します。それが人々を引きつける魅力でもあるのです。このような傾向は、コスプレ、制服フェチでわかりやすいでしょう。制服とは抑圧=正しさの象徴であって、あえて抑圧することによって、そこから溢れ出る醜悪さ、汚物、動物臭、歪さを際だたせる演出です。




9 生の破壊衝動


「女子高生」というコミュニティの魅力は、制服という抑圧から、活発に「溢れる汚物」の表出を社会的な人々は醜悪に感じながらも、強く引きつけられるのです。たとえばオタク的な「萌え絵」は象徴化され、無機質化されているはずなのに、見ていて気持ちが悪い、まさに汚物的です。それはまさに同じようにそこから「溢れる汚物」が転写されているからではないでしょうか。またロリコンという性向の意味は、幼児とは、社会的に言われる「かわいい」という象徴とは裏腹に、生の欲動(エロス)からくる汚物的、動物臭、残酷で、暴力的な存在です。まさに余剰の塊です。

このような溢れる汚物へ、ボクたちが強い引きつけられるのは、ボクたち自身の抑圧された余剰と同期し、転移するからです。「かわいい」、「美しい」、「正しい」という象徴的正しさ故に、汚物さが際だち、ボクたちはそこに引きつけられ、同期し、破壊衝動におそわれるのです。それは愛するが故に破壊したいというエロティシズムの根元でもあります。そこにはフロイト、あるいはバタイユ的な「死」はないのです。暴力は生に内在していると考えます。


ボクですか・・・ハニーのあちこちを噛んじゃいますね・・・