なぜ紅白歌合戦は見られるのか? 

pikarrr2005-01-01

ポピュラリティという享楽


晦日から正月へという時間は特別な空気感がありますね。これは、ピタゴラス的な数字の魔力とみても良いのかもしれません。 すなわち、単なる一日、一時間、一分、一秒が特別なものとなる、「偶有性から単独性への転倒」です。そして大晦日、正月は享楽ですね。それをもっとも象徴的に表すのが、高視聴率番組としての紅白歌合戦ですね。

このような享楽は、カウントダウン、クリスマスイブなどの特別なものではなく、生活一般的なことではないでしょうか。たとえば人はなぜ新作映画を見たがるのでしょうか。ビデオ屋にいくと、新しいということで、大量にディスプレイされて、争って借りられます。さらに日本のポピュラーミュージックのヒットチャートでは、発売一週目が販売の勝負です。発売当初の販売量が全体のほとんどを占めます。

それは簡単にいれば、「みんな」の中で話題であり、「みんな」が見たがっている(聞きたがっている)「だろう」から、見られる(聞かれる)のです。すなわち「まなざしのネットワーク」への帰属です。




マニアという享楽


また異なる一面があります。それは「マニア(オタク)」という一面です。大多数が見たいというミーハーな話題作などみたいと思わない。逆に、マイナーな映画をみたいということであり、映画そのものを深化させたいということです。ここでも、「まなざしのネットワーク」への帰属が元になっています。「みんな」と差異化された「まなざしのネットワーク」「映画マニア」というコミュニティが形成されているのです。マニア、オタクはこのような構造をもっています。そして、「みんな」と差異化されている故に、「みんな」コミュニティよりもコミュニティへの帰属意識が強い傾向があります。強くまなざしのネットワークに帰属するということです。

しかしポピュラリティ的な「みんな」というコミュニティであれ、マニアなコミュニティであれ、コミュニティとして成立するためには、何らかの差異化が行われています。たとえばイチローの活躍を喜んでいるアメリカ人を見ると誇らしく思います。これは、「日本人」が一つのコミュニティとなって、そこに帰属していることを表します。アメリカと差異化されることによって、通常の「みんな」よりも、「日本人」への帰属意識を生みます。たとえば外国にいくと日本人であることを強く意識することと同じであり、ナショナリズムです。さらにワールドカップ、オリンピックの享楽に繋がります。そしてクリスマスイブ、紅白歌合戦などは、通常とは異なる時間ということで、時間を差異化したポピュラリティ的な享楽です。




新たなまなざしの獲得


このようなまなざしのネットワークに帰属することの享楽とはなんでしょうか。たとえばあるコミュニティに新しい人が入ることによって、コミュニティが活性化されるのは、当たり前になっている習慣について新しい人が指摘することによって活性化するのではなく、コミュニティの人々の中に、新しい人のまなざしが内在化するからです。「新人がこれみたらどうかんじるだろう」というような新人のまなざしがみんなの中に内在化されることによって、コミュニティないの人々が活性化されるのです。

たとえば、これは人が悩みを相談する意味にもつながります。悩みを相談するのは、解決策や慰めをもらうためということもありますが、相手と悩みを共有することによって、相手のまなざしを通して悩みを見ることができるからです。悩める自分を外からみるようなまなざしを獲得することができるためです。

これは何かを共同作業するということにも現れます。たとえば親とTV番組をいっしょに見ていて、エロいシーンがでてきて、一人でみていればなんてことなにいのに、恥ずかしくなるのは、それは一緒に見ている親のまなざしを内在しながら、TVを見ているからです。たとえば、かわいい女の子にエロいことを言わせて興奮するのも、かわいい女の子のまなざしを内在し、彼女がはずかしくなっているだろうようにはずかしくなるから興奮するのです。

すなわちまなざしのネットワークという構造は、このような転移のネットワーク構造にあります。そして転移が「溢るる汚物」という内的な欲動を想起させるのです。




カウントダウンから「溢るる汚物」


晦日から正月へという時間を特別なものとしてるのは、象徴界的なものであり、12月31日23時59分50秒などのシニフィアンです。そこでは同じ1秒でも、他の時間とは違うというように、時間が差異化されます。その差異化によって、「みんな」に共有された価値が生まれる=すなわち「まなざしのネットワーク」というコミュニティが生まれます。そしてこのまなざしの共有=まなざしのネットワークの帰属意識によって、カウントダウンというシニフィアンから「溢るる汚物」が転移、伝搬されるのです。すなわち、みんなが興奮しているだろうことによって、みんなが興奮するのであり、大晦日、正月は享楽です。

それ故に大晦日はライブ番組が指向されるのです。ライブとはカウントダウンであり、差異化された時間の共有です。たとえば、少し前に2000年1月1日0時0分0秒という時間がありましたが、これは千年期として人々の意識を転倒させました。単なる1秒が、人類という「みんな」の中の「私」という転倒に繋がる故に享楽なのです。




「祭り」という享楽


さらに大晦日の番組の特徴は、思考的であるよりも、生理的なものが指向されます。紅白歌合戦という音楽は、なぜだかわからないが心地よい、興奮するという生理へ訴えるものです。さらに格闘技番組という闘争は、痛み、興奮という生理を根元にしています。

それは、趣味や趣向や国籍の差異化によって形成される「まなざしのネットワーク」よりも、カウントダウンという時間の差異化によって形成される「まなざしのネットワーク」が、より欲動的だからです。それは「祭り」の構造です。「祭り」はいつもと同じ時間を転倒させ、特別な時間として、限定された期間として差異化させます。

みんな、紅白歌合戦を見たいわけではない。年に一度そのときしか見ない、特別思い入れもない歌手を見たいわけではない。12月31日というシニフィアンによって局所的に差異化された価値が、その価値を共有するコミュニティを生み、コミュニティ内の人々の欲動を作動させ、「祭り」は発動される。すなわち紅白歌合戦をみると言う行為そのものが、まなざしのネットワークへの帰属であり、「祭り」への参加であり、「溢るる汚物」の放出である。最近の大晦日格闘技番組の人気も、まったく同じ構造でしょう。まさに「歌祭り」であり、「男祭り」です。


ボクですか・・・大晦日はK1とプライドをチャンネルを変えながら、見ていましたが、もっとも興奮したのは魔裟斗×KID戦とシウバ×ハント戦ですかね・・・いやぁ〜まんまと興奮しました・・・ということで、あけおめ・・・