人はなぜ自殺するのか? 「死へ向かう快楽」 その1

pikarrr2005-01-09

奈良女児誘拐殺人事件 


奈良女児誘拐殺人事件の犯人が逮捕されました。(共同通信 http://news.kyodo.co.jp/kyodonews/2004/nara/) この事件は、その誇示行動による猟奇性によって大きな話題となりました。そして逮捕につながったのも、犯行後も被害者家族にメールを送り続けたことや、女児の写真を知り合いに見せつけたというその誇示行動からでした。このような行動について、彼は「事件が忘れられていくのがいやだった」というような発言しているようです。

これらのことから、この事件を通して彼が強い「まなざしの快楽」の中にいたことが想像できます。事件が報道され騒ぎになるほどに、自分への強いまなざしを感じていたということです。さらには犯行そのものに、まなざしへの強い欲望が感じられます。彼は少女を殺すということが、人間として最低の行為であり、間違ったことであることを十分わかり、それが間違いであるが故に、犯行をおこなった。それによって、逆説的におれは少女を殺すことが間違いである社会の一員であるという承認を得る、まなざしを欲望したのではないでしょうか。だから、この快楽は、最終的には、この犯行を起こしたのはおれだ!という誇示=すなわち逮捕されることに向かうしかなかった。彼は捕まることを望んでいたと言えます。

これはまた、彼が「まなざしに飢えた」日常に生きていたということ、この私という実感、私がなにものであるのかという実感が希薄した日常にあったとも言えるでしょう。




まなざしの過剰による死


かつて、国民的英雄になったマラソン選手が、その後思うような結果がでずに、プレッシャーのために自殺したことがありました。これは「みんなの期待」に過剰に応えようとすることからきます。そしてここでいう「みんなの期待」とは、自己に内在する超越的な「まなざし」でしょう。

自殺したと聞いたときに多くのファンは、そこまで追いつめられていたのか、なにも死ぬことはないのに、と思ったでしょう。「みんなの期待」とは、実体的なものではなく、主体に内在する超越的なものです。そしてさらにはそれは、「私」への承認として作動しています。

みんなの期待に応えることがみなに承認された私であり、「私」そのものであるために、そのまなざしへ応えられないと言うことは、「私」が失われることであり、それは肉体的な、物質的な死よりも優先されるということです。

またこのような自殺は、自爆テロなど殉教的な死にもつながります。宗教的な神のまなざし、あるいはイデオロギー的なコミュニティ内の「みんなの期待」というまなざしを内在し、使命そのものが「私」となるのです。これは、「私」であることを、まなざしへ依存しすぎた結果、「まなざしの過剰」と言えます。




「私」であるというまなざしへの依存


このような「まなざしの過剰」は、死に至らなくとも、「私」を支えていると言う意味で、みなの中にあります。たとえば、仕事中毒(ワーカーホリック)に陥るのは、自分が仕事をすることで、関係者を支えているから、がんばらなければならないということですが、逆説的には「私」であることが、仕事へ依存しているということです。そして責任感というものは多かれ少なかれ、まなざしへの依存を元にしてるでしょう。

多くの成功者が成功というプレッシャーにつぶれる。その失敗が経済的な窮地であっても、、肉体的な生命機能を維持することができない、餓死するほどに追いつめられるものではないにもかかわらず、死を選ぶことはあります。これは、「まなざしのネットワーク」というコミュニティ内で成功者として尊敬されているというまなざしの中にいて、それが「私」自身を支えているために、その「私」が失われたときに、肉体的な、物質的な生命維持には価値がなくなるということです。




死とはなにか?


死には2種類あるということです。一つは肉体的な生命維持の停止、そしてもう一つは「私」の消失です。そして「私」とは、まなざしによる承認です。ハイデガーは、人間という存在にとって、いかに「死」が特別であるかを示しました。そして人のみが「死ねる」、そして「欲望」を指向すると考えました。すなわちハイデガーがいう「死」とは、「私」の消失ということでしょう。

ハイデッガーは「存在と時間」において、現存在としての人間の死と生物的な死を区別した。現存在のみが本来的な意味で死ぬことができ、人間以外の動物は生物学的に滅びることしかできない。だから、現存在は不死(滅びない)が、死ぬことができるのである。これは、現存在のみが生と死のあいだの境界を画定し、それを通過することができるということである。・・・死は言葉と密接なつながりがあり、人間(現存在)は言葉を持つから本来的に死ぬことが可能であり、動物(生物)は言葉を持たないから本来的に死ぬことができない。

本のメモ ジャック・デリダ「Finis[境界・終末]」
http://d.hatena.ne.jp/suousan/20050106

たとえば、細胞の死は「死」か?木の葉が枯れるのは「死」か?さらに、一匹のアリの死は、一匹の犬の死は、「死」か?それらは物質的な生命秩序の機能停止であって、「死」ではないのです。

なぜならそれらは偶有的な存在だからです。たとえば人の細胞は人という細胞の集まり(集団)の一部であり、集団という秩序を維持するために代替可能なパーツの一部です。だから細胞の死は、集団という人が生きていくために不可欠な新陳代謝でしかないのであり、細胞の死は秩序機能の停止であっても、「死」ではないのです。これはアリ、犬でも同じです。アリの集団、犬の集団、さらには環境という秩序の一部です。

さらには、これは、人にも当てはまります。人が多くの生命と同様に寿命によって、生命機能が停止するのは、人の集団の秩序を維持するために、定期的にパーツを入れ替えるためです。このとき、ボクたちは集団のパーツという偶有的な存在でしかありません。「死」ぬためには、このような偶有性に打ち勝つような、その存在そのものに強烈な自律性が必要なのです。




「現存在」というまなざしを内在する存在


ボクたちが、アリ、さらには犬が「死」んだと思うのは、それはあなたがアリ、さらに犬に強い思い入れ持つからです。そこに自己投影する=まなざしを注ぐからです。だから自己投影する=まなざしを注ぎ、「死」を捏造することは、生命である必要がありません。大切な人形、パソコンなどが壊れたときに、ボクたちは「死」んだと思います。

「死」を成立させるための、偶有性に打ち勝つような、強烈な自律性とは、自己投影であり、まなざしを注ぐことであり、「偶有性から単独性の転倒」することです。まなざしの力によって、集団の一部であり、代替可能な存在=偶有性を、代替不可能な唯一なもの=単独性へと転倒させることです。

ハイデガーがいうように、人は、動物とはちがい、「現存在」「気遣い」としてある、まわりのものごとをつねに対象化しつつある存在なのです。これは、ボク的にいえば、まわりのものへ自己投影し、まなざしを注ぎ、そしてまなざしを内在すること、「偶有性から単独性の転倒」することによって、「私」であることができ、「死」ぬことができる存在なのです。

そしてまなざしを内在すること、「偶有性から単独性の転倒」することは、言葉を獲得することによって、行われます。まわりのものを言語化し、さらには名付けることによって自己投影し、「偶有性から単独性の転倒」するのです。




「死」という道具


すなわち人が、「死」ねるのは、、「私」であるからです。言葉を獲得し(象徴界に参入し)、名付けられ、他者のまなざしを内在すること、「偶有性から単独性の転倒」することができるためです。

だから自殺することができるのも、人のみなのです。偶有的な存在は自殺することができません。偶有的な存在である生命は生の力として、空腹になれば栄養をもとめ、心臓を鼓動させつづけ、免疫機能を作動させつづけます。単独的な存在、「私」となることによって、始めて「死」ぬことが可能になり、「死」を選ぶことが可能になるのです。

自殺とは、「私」「私」でありたいという欲望の前では、「死」さえも道具として使われることを示しています。名誉のため、「私」の一部である家族のため、「私」が帰属する社会的な秩序のため、「私」の信条(宗教)のためというように、自殺は、まなざしの快楽の回りで起こます。

つづく・・・