人はなぜ自殺するのか? 「死へ向かう快楽」 その2

pikarrr2005-01-10

自殺クラブ


最近、ネットで仲間を集めて、自殺する人々が話題になっています。このような自殺が話題になるのは、「死に対する軽さ」というなものを感じるからではないでしょうか。ともに死ぬとは、どうしようもないほどに追いつめられて行われるものであり、たとえば宗教的に結ばれた集団、あるいは愛情で結ばれた関係など、あの世にいっても、その繋がりの継続を誓い合う強いまなざしを交わし会う者たちによって行われるものと考えられています。

しかしネットで自殺する仲間を集める場合には、いわば乗り合いタクシーみたいなもので、「同じ方向に行く人いませんか?、(不安、さびしさ)シェアしましょう。」ということで、目的地(あの世)に着けば、またそれぞれ別々ということです。ここに「死への軽さ」というものを感じてしまいます。

彼らがなぜ自殺するのかは、一概にいえませんが、一つの理由として、死へ向かう軽さこそが、死を選ぶ理由であるといえるかもしれません。「なんのために生きているんだろう」「私とはなにものだろう」ということの無力感から死が選ばれるとき、まなざしのネットワークへの帰属、他者からの承認の希薄であるが故に、まなざしを取り戻す、「私」を取り戻す究極的な道具として「死」は使われるのです。

死へ向かうとき、人は強烈にまなざしを感じます。それは死ぬことは間違ったことであるとわかっている故に、間違っているという人々の注目=まなざしの快楽が捏造されるのです。それによって、リアリティを勝ち取り、「私」が取り戻されるのです。




まなざしが希薄化する社会


自殺クラブ的な状況は、先に示した「まなざしの過剰」から自殺する人と対極にあるようですが、根元に「私」でありたいという欲望があると言う意味で、同じです。人が人であるということは、まなざしを維持し続ける必要があるのです。

そして自殺クラブ的な状況が、現代が、まなざしが希薄している、「私」がなにものであるのか、という実感を持ちにくくなっているということではないでしょうか。

現代の情報化社会では、人(現存在)としての特別性、まなざしを維持する=「偶有性から単独性への転倒」することが困難になり、人は偶有的な存在=無数のようにいる人々の中の単なる一人、私である必要がなく、私がいなくなれば容易に代替されるような存在へと引き戻されます。あるいはこれは動物化といってもいいかもしれません。これは情報社会では、様々な価値が語られ、何が正しい、これが「私」だということが困難になっています。

「まなざしのネットワーク」はそもそもにおいて新陳代謝システムなのであり、システム内の動きが活発化することによって、かつてのような長期的に「正しさ」を安定することができなくなっていると言うことができます。それは、ポストモダン以降、社会が情報化し、コミュニケーションが今まで以上に活発化したためと考えることができます。これは、象徴界の活性化」であり、さらにはデリダ的に意志として脱構築するのではなく、システムに内在するルーマン脱構築が活性化しているということです。
「なぜ人は必ず恋をするのか?」 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20041210

しかしそれ故に、人は人であろう、「私」「私」であろうと欲望される、「偶有性から単独性への転倒」が行われるのです。たとえば、現代は、積極的に「私」が露出されます。街では人々はより過激に劇場化する、また伝達する内容有無にかかわらず、繋がりをもとめてメールが交わされ、ネットコミュニケーションが行われる、ブログでは積極的に自分が語られる。

ここには欲望のパラドクスがあります。ラカンが言うように欲望は決して充足されるものではなく、そして欲望の対象は欲望の原因でもあるということです。人々が「私」であろうと欲望すればするほど、さらに欲望が生まれるということです。欲望を満たされることによって、より欲望が増幅し、より不満足を感じるという構造です。

現代とはそのようなパラドクスが加速した時代なのです。人々は豊かになり、便利になり、より強くまなざしを欲望すればするほど、まなざしが希薄化していくということです。




死へ向かう快楽


まなざしの捏造、「私」の獲得は、自殺クラブのように、究極的に死を選ぶというところまで行かなくとも、「死へ向かう快楽」として、正しさを破ることによって、行われます。バイクで暴走するや、お金に困っていないのに万引きするなど、さらにはもっと些細なところでは、親、学校に逆らってみるなどであり、誰にでもあるあえて「正しさ」へ逆らう行為です。

現代、万引きするほどものに困ることがあるでしょうか。お金があるのに、あえて万引きするのは、それが間違いであることだからです。「正しさ」を破るときに、逆説的なそれが間違いであるコミュニティに自分は帰属しているという実感、間違いであるというまなざしが捏造され、「私」という実感を感じるのであり、「死へ向かう快楽」です。

より幼稚には、子供が自分を認識してもらうために、寂しさからあえて「だだをこねる」という行為に見ることができます。子供はそのように親のまなざしを絶えず引きつけようとするのです。

「死へ向かう快楽」は、究極的には生命的な機能維持をかけるという「死」を選ぶというところまで行き着きます。そしてある種の超人的な高揚感へ達することがあります。まなざしは他者のまなざしであり、究極的には大文字の他者=神のまなざしであるからです。




オタク化という傾向


このようなまなざしが希薄化する社会の中で、いかに「私」を維持するか。その方法が、「消費」でしょう。現代は消費というフェティシズム(物神化)によって、「私」の単独性は支えられています。みなに欲望されるものをもっている、消費しているだろうことによって、まなざしが捏造され、消費しつづけることが「私」を支えるのです。これは「マイフェイバリットからマイブームへ」という傾向が表していると思います。思い入れする、まなざす趣向の消費は、時間的により加速化されています。それによって、欲望が加速化し、まなざしが希薄する社会の中で人々は、「私」を維持し続けるのです。

これは単純には、ブランド品にはまる、ある分野の商品を収集するようなことです。そしてそれをさらに先鋭させたのものが、単なる消費ではなく、そこに創造性を付加していくことであり、オタク化です。創造性は、唯一のものを作りだし、より「私」だけの単独性を高めるます。たえず、溢れる汚物を排出し続けるということです。

オタクとはある特定の人々というよりも、ポストモダン的な情報化社会=まなざしが希薄化する社会で、情報へのフェティッシュ(物神化)という深化によって、まなざしを充足しようとする先鋭的な「傾向」であるといえます。このために現代を生き抜くためには、多かれ少なかれ、オタク化することは必要不可欠でしょう。




オタク=変態という神話


一部メディアで、奈良女児誘拐殺人事件の犯人が、オタクであることが一つの論点になっているようです。( 渋谷系@はてな 性犯罪者 -オタ切り裁判-  http://d.hatena.ne.jp/bmp/20050106/1105035248宮崎勤のときと同じように、「オタク=変態」という短絡的な神話が捏造されています。このような衝撃的な事件の跡には、その反動、緩和作用として、犯罪者を(悪の)超人化し、ボクたちとは異質なものとして、排除する神話は語られことは、特にめずらしいことでもないでしょうが。

彼がむしろ真面目な、正当なオタクであれば、彼はまなざしをもっと上手く捏造しえたとの言えるかもしれません。彼はオタクとして先鋭化できなかったからこそ、「死へ向かう快楽」へ向かったということではないでしょうか。

彼がおこなったことは、そのようなオタク化、差異化運動という地道な行為の放棄であり、「私」「私」であろうとするとき、安易に「死へ向かう快楽」という道具を使ったのです。

彼はそれは間違った行為であることをわかっているから、それを破ることによって、強烈なまなざし=「私」を獲得したのです。まなざしの希薄から、過剰へ転倒することによって、彼は「非道な犯罪者」という新たな名によって、社会に承認された「私」となったのです。




「死へ向かう哀楽」という主体の殺害 


殺された少女は彼の自己投影された「私」であり、そして彼は少女を殺すことによって、「私」そのものを殺したといえるかもしれません。犯罪を犯すことによって、彼が手に入れた「私」は、マスメディアに報道され、新たに言語化された「非道な犯罪者」という名であって、もはやかつての彼そのものではないでしょう。

本来の彼そのものは、言語に還元されることがない多様な面をもった存在であったはずです。しかしまなざしの希薄から、まなざしは過剰の中に転じ、マスメディアに流通するシニフィアンの連鎖の中で、犯罪者、狂人とし名付けられた彼は、彼そのもののとは大きくかけ離れたものでしょう。

彼は、死刑を望んでいるとも言われています。時間がたち、社会の中でこの事件が風化しようと、獲得した彼の名は、彼の中のまなざしとして、消えることはないでしょう。彼は、究極的な「死へ向かう快楽」によって、本来の彼そのものを殺害したのであり、非道な殺人者という名として生きるのです。象徴的な名を破り、彼そのものを取り戻そうとする、生の欲動(エロス)から溢れる汚物は、もはや意味をもたないでしょう。そして彼にとって、このような過剰なまなざしの中で、物質的な生命機能維持をすることは意味がないのかもしれません。



ボクですか・・・

このような問題を語ることの難しさは、一つにはそれをボクたちとは「異なる者」として排除することです。容易には精神異常者、あるいはマスメディア的大衆から見た異なる者としても「オタク」として名付けることによって、ボクたちの世界の外として境界をひき、神話として排他することで、ボクたちは安心をえようとします。

ポストモダンの思想では、このような危険は、フーコーを始め様々に語られてきました。このような問題へのデリダ的な解答は、絶えず境界を脱構築する、考え続けるということです。ボクたちを、容易に安心を得てはいけないということです。

しかしそれはまた、「手紙は必ず届く」こと疑い、「私」を、「死」を、「偶有性から単独性への転倒」を疑い、まなざしを希薄させることです。そこにはその反動としての喉の渇きから、「死へ向かう快楽」という禁断の果実へ手を伸ばしたくなるというパラドクスがあります・・・たいへんな世の中です・・・