(2ちゃんねる哲学板)「死へ向かう快楽」

pikarrr2005-01-11

643 :考える名無しさん :05/01/10 15:47:30
≪まなざし=快楽≫

一月九日付のはてなダイアリ」、拝見しました。 こういう事件が起こるたびに、テレビや雑誌では犯人の「心の闇」ということをこぞって口にするのですが、わたしはいつも違和感を感じていました。というのは、人のこころのなかは殺害犯に限らず誰もが皆、混沌としたものであり、その混沌を「闇」と呼ぶならば、「闇」は誰しもが持っているからです。(もう前のことになりますが「東電OL殺人事件」の時もしきりに「心の闇」がマスコミで取り沙汰されていましたね。)「まなざしの快楽を味わうため」、あるいは、「まなざしのネットワークへの帰属」、と考えた方がよりわかりやすいですね。

実は、わたしは「心の闇」という表現に辟易していた一人です。他者からの承認を得たいがための犯行、すなわち、より強いまなざしを得たい、その他大勢の中の一人にしか過ぎない私ではなく、ただ一人の私になりたい、(偶有性から単独性への転倒)ということでしょうか。


644 :考える名無しさん :05/01/10 15:48:25
≪まなざし=拘束≫

奈良県の少女殺害犯は子供の頃、母親を亡くしたそうですね。母親は彼を溺愛していたそうです。この殺害犯のなかで、亡き母のまなざしが常に彼を拘束していたのではないでしょうか? 溺愛とは、そのまま拘束にも繋がると思うのです。愛されるということは同時にいつまでも(死して尚)、彼を捉えて離さないということですよね。母親のまなざし=拘束という鎖を断ち切るために、犯行に及んだ……?

先の「東電OL殺人事件」で殺された(毎夜街娼として立っていた)女性の父親も彼女が子供の頃、亡くなったそうです。そして、彼女も父親を非常に尊敬していたそうです。亡くなってからも父親のまなざしが強く内在していたであろう、と推測されます。つまり、ここでも父親のまなざしは彼女を拘束していたことになります。以上から踏まえると「まなざし」は、人のあらゆる行動を決定づけるキイ・ワードと考えられますね。


645 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/10 16:13:42
もしかつての親の愛とつなげるならば、親の強度のまなざしを浴び、親にとっての唯一の私であるという幸福感から、一転、親の死によって、まなざしが欠落したということではないでしょうか。そしてその欠落を埋めることを求めた、という意味ではその「空のまなざし」が彼を拘束し続けたのかもしれません。それを埋めるために、「死へ向かう快楽」へ求めた。反社会的な行為は、逆説的にみなの注目(まなざし)を集めます。それは本来求めていたまなざしではないでしょうが、それでも、まなざしの欠乏=「おれなんか生きていてもいなくても一緒だ」という苦悩よりはマシだった、ということかもしれません。

そしてこのような構造は、誰の中にもあるものですね。誰でも幼児の頃の親の愛情が究極的なまなざしです。ラカン的には、やがて象徴界に入り社会性を手に入れるが、それは主体の消滅=もはや主体そのものではありえない。社会的に決定された主体として生きなければならない。そこには、根元的な欠乏をかかえることになります。

そして主体は、たえずその欠落を埋めようと「欲望」します。それが、他者の欲望であるわけです。また他者の同様に欠落した主体ですから、他者の欲望も欠落したものでしかないそれ故に、欲望は満たされることがない。ということです。


648 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/10 16:21:54
アメリカのPCオタクの物語を読みましたが、もともとPCなど世の中になく、それが今のように膨大なお金に繋がるなどだれも想像しなかった。みんな単なるオタクだった。それでも彼らは競うように、昼夜を問わず、開発を続けた。そしてビルゲイツのような成功者が現れた。でも彼らはいまでも、同じようなオタクであり続けている。一生かかっても使えないようなお金を手に入れても、汚い服を着て、ハンバーガーを食べて、仕事をしている。彼らはなにを求めているのか、ということです。リエーターなどが、昼夜を問わず創作活動に打ち込む。それは、単にお金持ちになりたいだけ(功利主義)では説明できない。それは、「彼らは、自分には何かができることを証明しようとしている」ということでした。

たとえば、浜崎あゆみの恵まれない幼少だったと聞いています。彼女の歌のテーマはそのようなかつての欠落の取り戻し、彼女自身、自分が何ものであるか、問うているのだと思います。そしてそのような欠乏の物語に、多くの人が共感するだと思います。このような渇望は、誰もがもつものでしょう。

私とはなにものであるか、を求めるときに、そこには必ず、既成の破壊があります。それによって、私だけのものを見いだし、人々のまなざしを集めるのです。それは「死へ向かう快楽」です。この構造は、殺人者の同じ構造にあるといえます。恐ろしいことに、それは、状況、強度の差でしかないということです。


652 :643=644:05/01/10 17:55:36
≪その1≫

>その「空のまなざし」が 彼を拘束し続けたのかもしれません。

ここで指摘される「空のまなざし」とは、本来ならあって然るべきものが欠けてしまったゆえにそれを取り戻すため、再びまなざしを得るために、亡き母親のまなざしは現実には入手不可能なため、その代替として、世間のまなざしを手に入れた→反社会的な行為は、逆説的にみなの注目(まなざし)を集めます。というふうに捉えてよろしいでしょうか?

≪その2≫

>また他者と同様に欠落した主体ですから、他者の欲望も欠落したものでしかない。それ故に、欲望は満たされることがない。ということです。

そうですね…。何も殺害犯だけが特別満たされない欲望を抱えているというわけではなく、わたしたち全員が満たされないのですね…。つまり、殺害犯だけが特別な人間ではなく、わたしたちだっていつでもその危険性を孕んでいるということになります。高見から見下ろしてはならない、ということでしょうね。自分だっていつどうなるか皆目、人にはわからないのですものね……。深く深く、了解です。

≪その3≫

>クリエーターなどが、昼夜を問わず創作活動に打ち込む。

みんな単なるオタクだったまあ、趣味が昂じた人がオタクであるならば、あらゆる作家、学者、発明家、創作に携わる人が皆、その源でありますね。プロ、アマ問わず創作している人は、自分が何かを発信することで他者に独自のメッセージを届けたい、自分はここにいますよ、と伝えたいのでしょう。

>それは、彼らは、自分には何かができることを証明しようとしているということでした。

その真摯な気持ちを笑うことは誰もしてはならないと、わたしは考えています。いえ、むしろ歓迎したいですね。

≪その4≫

>自分が何ものであるか、求めている、とも言えると思います

自分=他者の欲望であるなら、皆に支持されているアーティストたちは、そのことを誰よりもよく知っていると言えますね。つまり、誰もが皆求めていることを、(自分が何ものであるか)的確に表現できる人ということでしょうか。それが、才能なのだと思います。

≪その5≫

>私とはなにものであるか、を求めるときに、そこには必ず、既成の破壊があります

これは、かなり考えさせられました…。というのは、「わたし」という人間は単一のものであり、オリジナルなものであり、ただそこに存在するだけならば、別段、既成の破壊にはならないのですが、ひとたび「私とはなにものであるか、を求める」ことによって既成の破壊を招いてしまう、ということでしょうか?そういえば、歴代のアーティストたち、ロック世代が一世を風靡したときの音楽性、ファッションなどかなり世間の顰蹙を買ったらしいですね。けれども、人が人である限り、求め、欲望し続けるのでしょうね。


657 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/10 18:45:36
>≪その1≫

そういうことだと思います。欲望は満たされることがない。欲望は欲望を増幅させる。ラカン的には欲望の対象は欲望の原因であるということでしょう。親によって満たされた欲望はより欲望を増幅させ、そしてそれが欠落し、穴として残るということです。たとえば子供ならば、反抗的な態度にでる、「だだをこねる」などして、人の気を引く(まなざしを得よう)とします。このようなまなざしを求め、あえて「間違い」を起こすことを「死へ向かう快楽」と呼びました。

>≪その2≫

恐ろしいことですが、このような事件が起こるとボクたちは、衝撃を受けるとともに、とても引きつけられますね。それは被害者の受けた気持ちを忘れるほどに。それは彼が踏み込んだ領域が、遥か遠くの神話でも、彼がボクらと異なった狂人でもなく、ボクらのすぐ側で起こっているからです。彼が踏み越えたラインの側をボクたちはいつも歩いているからではないでしょうか。

たとえば、ボクたちは幼女に引きつけられる、吸い寄せられるような気持ちをもち、また純粋なものと踏みにじりたいという暴力の性向を内在しています。それは社会的には狂気とし排除されて、内的に抑圧しています。このような事件が、ボクたちの「狂気」と共鳴します。それは彼の行為に同意するとか、ではなく、思考を越えたところで共鳴し、とても不快な気持ちになり、そして恐怖を感じます。それは彼への恐怖とともに、自分自身への恐怖です。

しかし自分自身への恐怖であるが故に、また彼らは、ボクたちとは異なるものとして、神話として排除しようとします。それは「偶有性から単独性への転倒」として、ボクたちとは異なる、ボクたちの理解を超えた、超越性へと排除します。彼がもつボクたちと同じ「普通」な面を抑圧し、「狂人」という超越的シニフィアンとして名付けます。そして、境界の外におくことで、ボクたちの境界の内側は安心と、します。

しかしこれによって、彼そのものは殺害され、名として永遠の生き続けます。すなわち「神」となるのです。恐ろしいことですが、以前の宅間であったり、麻原であったり、古くは切り裂きジャックであったり、(古すぎる?)彼らは必ず神性を浴びます。ちょっと違いますが、ニーチェの反社会的な言説などへ引かれるなど。

これは、おそらく犯罪者自身にも起こるのではないでしょうか。狂気的な悪を行使するときに、人はある種の超人的な高揚感へ達することがあります。まなざしは他者のまなざしであり、究極的には大文字の他者=神のまなざしであるからです。(映画の見過ぎでしょうか?)かなりやばいことを語っていますが・・・

>≪その3≫

よく既成概念を破壊する故に、創造的なクリエーターの情熱に対して、彼は情熱を向ける対象(音楽家の音楽、作家の小説など)を見いだせたから、クリエーターとして成功しているが、もしそれが見いだせなければ、犯罪者になっていたかもしれない、というような言い方をしますね。これは、「死へ向かう快楽」を向ける対象、方向と社会性との関係が正か負かで、それが善か、悪かが決まるわけですが、その社会性という価値が、偶然なものであると思います。極端には戦争などでは、普通では考えられないことが常識としてまかり通るということですが、普遍的な「正しさ」は存在しないということです。

>≪その4≫

ボクはこれも難しい問題があると思います。アーティストの成功をポピュラリティーの獲得と見るなら、これもまた偶然的なものでしかないと思います。なぜ、浜崎あゆみがポピュラリティーを獲得したのかは、彼女に才能があったということですが、またそれは、その時代のより多くの人々の欲望とたまたまリンクしたということです。だから浜崎あゆみがもっとも才能があったということでは、ないでしょう。

>≪その5≫

この破壊は、「死へ向かう快楽」と考えることができます。満たされることが欲望を求め続ける、まなざしを求め続けるときには、絶えず動的である必要があります。まなざしを引きつけ続けるようとするときに、絶えず破壊的でなければならない。このような傾向はとくに若いときに顕著です。年を取ってくると、社会的な位置(静的な位置、象徴界の位置)に甘んじたくなります。

この力は根元的には、生の欲動(エロス)であると考えることできるのではないでしょうか。生命の根元的な特性は、変化し続けることです。止まってしまうと、環境変化の中で淘汰されてしまいます。人類の繁栄への力として、既存の破壊は不可欠です。その力が寿命という定期的な人の入れ替えであり、入れ替わった若い人は、既成概念を破壊し、新しいものを求めることにより、人類というシステムが新陳代謝し続けるということです。

ダーウィンの進化論では、これは自然淘汰であり、自然の変化による淘汰あるが、受動的に種を変化させるということですが、最近の進化論に自己組織化を取り入れた考え方では、種そのものに、変化への力が内在すると考えられるかもしれません。いきなり、欲望と、自然主義をつなげてしまいましたが、この辺りはもう少し考えるところです。

ボクが言う「死へ向かう快楽」フロイト死の欲動と対比されることが容易にわかると思います。「快感原則の彼岸」であり、ラカンの欲望論の原点です。すなわちこの情動がなにものであるのか、ということは、ニーチェ力への意志から繋がる、近代哲学が求めてきたコギト(思考による世界の表示)を破壊するものです。ラカンはそれを追い求め、剰余物としtの対象aとして表現し、人が到達不可能な現実界からの裂け目として捉えました。


664 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/10 19:04:54
このようにタブーな狂気を語ることが「死へ向かう快楽」であり、ボク自身も興奮してきた感がありますね・・・この流れでは、卑劣な犯罪行為が、時代性や、自然の法則、人間の本性へと還元され、避けることができない、人の及ばない超越性へ棚上げされて(偶有性から単独性への転倒)しまいますね。「私」であるとは、はまったくもって、恐ろしいです・・・