なぜ人は「人」になれないのか

pikarrr2005-01-13

人という「物語」、死という「物語の終わり」


ヘーゲルハイデガーの意味での人/動物の対立において、重要なものが、人のみが「死ね」るということです。この意味での人とは「物語」であり、「死」とは「物語の終わり」です。 「物語の終わり」とは、それ以上先がないのであり、すべての価値がゼロに戻る地点です。悪人は行った悪の分を償い、善人には見合った報償を受ける。「決定的に手紙が届く」地点です。「死」とは、そのような地点であって、これによって、人とは始まり、終わる物語として成り立ちます。

動物は「死」ぬことできません。仮に生命維持が停止しても、エンドマークは現れず、物語はそれとは関係なく続きます。物語に登場しても、それは人間という物語の脇役であって、その役はその動物でなくても、代替可能な役です。

ボクたちが、動物と異なり、「死」を恐れる、また自殺することができるのが、ボクたちの「死」が「終わり」だからです。それはボクたちが一つの「物語」であって、誰でもない代替不可能な「私」であるからです。まなざしとは、物語であって、「偶有性から単独性への転倒」とは、物語化の欲望です。




映画「A.I.


映画A.I.はロボット少年が人間の母に捨てられて、「人」になることを夢見て、旅をする物語です。まさに「偶有性から単独性への転倒」物語です。ロボットとは容易に代替可能な偶有的な存在そのものです。それが代替不可能な人になるために単独性を求めて、旅をします。

ラスト、物理的に人にはなることはできないが、一日だけ母親と密な時間を過ごすことができます。それは2千年間求めた母であり、超越的な他者であり、そのまなざしをあびる、内在するという、究極的な「偶有性から単独性への転倒」が起こる瞬間です。そのとき、ロボット少年は「人」になったといえます。そして、彼が「人」になったとき、彼の物語もゼロに戻り、彼の2千年の旅は終わり、「死」ぬことができたのではないでしょうか。




「まなざしの快楽」=「死へ向かう快楽」


ここで言えるのは、彼はロボットであるからこそ、欲望は完全に満たされ、「人」になれた。人は彼のように、究極的に「人」にはなれない。なぜなら「欲望は満たされることがない」からです。

そしてさらに、ラカンの「人の欲望は、死の欲望である。」というテーゼにつながります。欲望は、ゼロの地点へ向かおうとする欲望です。そこは何一つ矛盾がなく論理的な、科学的な確立された世界、完璧な秩序の世界であり、静寂の世界であり、ヘーゲル的な歴史の終わりであり、それは「死の世界」です。人はこのような死の世界を欲望しているのであり、「まなざしの快楽」、「私」であろうとすること、欲望することそのものが、「死へ向かう快楽」であるということです。




「溢るる汚物」=「生の欲動(エロス)」


デリダは、まさにこのヘーゲルハイデガーの意味で、動物と私の境界、生と死の境界を疑います。「偶有性から単独性への転倒」によって、失われるものを指摘します。この延長線上に、デリタの脱構築であり、差延という思想があります。

ボクが「偶有性から単独性への転倒」というときには、このデリダもふまえています。すなわち、「偶有性から単独性への転倒」は一つの人のもつ傾向です。それは、転倒が成功し、人となれるか、なれないかではなく、人にはそのような傾向をもっているということです。

たとえば、人も、動物と同じく、寿命という新陳代謝システムによって集団(社会)から(世代として)入れ替えられる存在=偶有性ですが、同時に、単独性を求める、「私」であろうとする存在です。すなわち人は、「偶有性と単独性の反復」でするが、同一の反復はないということです。これはドルゥーズの言う「差異と反復」へ繋がるかもしれません。

この同一の反復を許さないことそのものが、生きているというリアルを支えます。この同一の反復に絶えず忍びこみ、ずらす余剰が、現実界から湧き上がる力(エロス)「溢るる汚物」です。まなざしによって支えられている「人」であるとか、「死」であるとか、社会的秩序であるとか、「正しさ」であるとか、「善悪」であるとかを、汚し、その均質のわずかな隙間から、歪(いびつ)に溢れでてくるのです。

人は、止めどなく、溢れる汚物と、その汚物を同一の反復としてのシニフィアンへと閉じこめようとする象徴界の「闘争の場」によって、ただ生きようとしています。



死か、生か


映画A.I.の感動的なはずのラストシーンに漂うある種に不気味さは、人が到達することがない、本物の「人の死」の静寂だからです。そしてそれは母親の死の犠牲(それはまた母への復讐)によって支えられたものです。

ロボット少年がかつての親の愛情(まなざし)を求めたように、かつてのまなざしの快楽を求めて、代替可能な存在から、単独性へ転倒するために、「死へ向かう快楽」が、欲望を満たす方法(道具)として使われます。自ら、あるいは自己投影された他者を「死へ向かわせる」ことによって、(ロボット少年は、遺伝子技術によって、一日だけしか生きられないと知りながら母親を再生させた。すなわち一日で「殺した」。)ロボット少年のようにまなざしをとりもどし、「人」に近づけることを、夢見るのです。それが、まなざしが希薄化する社会を生きるボクたちと、この映画が、同期する部分かもしれません。そしてたとえばそれは究極的には、奈良女児誘拐殺人事件犯人のような猟奇的な殺人者に見られるかもしれません。

しかし、「(ロボットでなく)人ならば」、ここで、一日だけしか生きられない母親を再生させないという選択肢もあるはずです。一時的に強烈なまなざしの快楽を味わい、欲望が満たされても、すでにその瞬間に、「溢るる汚物」が進入し、異なるまなざしを求める、欲望は満たされることがないからです。それは、またまなざしを求めて、生き続けること、すなわち「生」を選ぶということです。

しかしこの選択は、ロボットのように死ぬことができないのではなく、「いつかは僕たちは死ぬ」、そのときに欲望の物語は終わるだろう、という可能性に支えられているのかもしれません。


ボクですか・・・やっぱ、エロスですね〜