なぜ衛星タイタンの表面写真は気持ち悪いのか?

pikarrr2005-01-20

衛星タイタンの写真の気持ち悪さ

米欧観測機、土星最大の衛星タイタンに初着陸

米航空宇宙局(NASA)と欧州宇宙機関(ESA)の土星探査機カッシーニから昨年末に切り離された小型観測機ホイヘンスは米東部時間14日午前7時45分(日本時間14日午後9時45分)ごろ、土星最大の衛星タイタンに着陸した。・・・タイタンは衛星だが、ガスの塊のような土星とは異なる硬い岩石質で構成され、まるで地球型惑星のよう。有機物を含む海が存在すると考えられ、数十億年前の生命誕生前夜の原始地球に似ているとされる。・・・だが、濃厚な大気による厚い雲にさえぎられ、これまでの軌道上からの観測では地表の起伏や海陸の分布などを把握できていない。

http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20050114i116.htm


少し前には、火星探査機が火星に到達し、表面写真を送ってきたが、今回はなんと土星の衛星タイタンに到達し、表面写真が送られてきた。これらの写真を見て感じるのが、あまりの「リアルさ」である。それはまさに映画カプリコン・1」を思い出してしまう。

映画カプリコン・1」(ASIN:B00005HNLB)は、NASAによって人類初の有人火星探検が成功したが、実は宇宙飛行士は火星には行っておらず、地球上のセットで演技されたものだった。そして宇宙船が地球に帰還途中で墜落してしまい、宇宙飛行士は生きていけてはいけない人になった、という宇宙開発をめぐる陰謀のSFサスペンスだった。

この写真は、地球上のどこかをぼかして写しただけではないのという「リアルさ」である。そしてタイタンの表面の写真が撮れたという感動とともに、地球上のどこにでもあるような風景であるという「リアルさ」は、ボクたちを「宙づりにされたような」気持ち悪い感じにさせる。




カオスの殺害という禁止


ラカンは言語を獲得していくこと(象徴界への参入)を「ものの殺害」と呼び、「父なるもの」の禁止の審級であるといった。そこでは、「ものそのもの」=カオス性(予測不可能性)は、(シニフィアンとして)名付けられることによって、「殺害され」、禁止される。それは隠蔽であり、強烈なカオスは、神聖化され、タブー視される。

たとえば、宇宙は神話の世界であり、超越的な他者=神、あるいは宇宙人を住まわせ、また山は、霊山と呼ばれ、神性なものとされ、山の神、あるいは天狗などの超越的な他者を住まわせ、近づくことを禁じたのである。多くの神話はこのような世界のカオス性の隠蔽である。深い森、不気味な沼などそこに神話の世界であって、妖怪が済んでおり、禁止された場所であった。現代においても、たとえば、占いとは未来というカオスの隠蔽である。幽霊とは、闇というカオス性の隠蔽である。




タブーへの欲望と消失感


たとえば、あこがれ続けた、みなに注目される女性は「女神」という神話によって「彼女そのもの」が隠蔽され、それ故に欲望される。「女子高生」は、高校生ぐらいの女子たちではない。女子高生が、「(コギャル的な)女子高生」というシニフィアンによって、隠蔽され、超越性、タブー性を持つときに、さらには幼児は幼児そのものではなく、ロリコンとうシニフィアンによって隠され、超越性、タブー性を持つとき、欲望の対象であり、原因となるのである。

このようなタブーは、逆説的に、欲望の対象であり、原因となる。隠蔽し、禁止することそのものが、他者の欲望の在処を示すマークとなる。それ故に、人はタブーを欲望する、宇宙を目指し、そこにある山に登り、「女性」をもとめるのである。これは、人々が欲望するだろうものがある故に、隠されるのではなく、隠されていることそのものが、欲望の対象であり、原因となるのである。

しかしこの欲望の結論は、それに到達できたとしても、山頂に到達したとしても、あこがれの女性とセックスできたとしても、そしてタイタンの写真が送られてきたとしても、そこには、何もないということである。タブーはタブー故に欲望される、隠されていることそのものが、欲望の対象であり、原因なのであり、暴かれたても、消費されたても、名付けられて「神話」の先には何もないのである。

他者の欲望の対象を手に入れることによって、まなざしの快楽を感じることができる。それは一つの達成感である。しかし達成された瞬間、すなわちタブーが破られ、神話が暴かれた瞬間、そこには何もないのであり、消失感とともに、欲望が始まるのである。




科学技術による欲望の加速


たとえば、ネットという科学技術の発展は、物理的な距離を越えて、人々を近接する。それによって、いままで不可能であったコミュニケーションの可能性を広げる。このとき、「いま、このときにも掲示板でなにか楽しいことが行われているかもしれない」という可能性が、欲望そのものを加速する。それがネット中毒へ繋がる。

かつて、携帯メールがない時には、物理的な距離によるバランスがあった。しかし携帯メールが物理的な距離を縮め、人々を近接させることによって、コミュニケーションの可能性が生まれた。その可能性は、なにかを伝えることが容易に便利になったのではなく、コミュニケーションすることそのものへの欲望を加速させたのである。

コミュニケーションしたいという強い欲望があり、科学技術がそれを満足させるのではなく、科学技術の進歩、近接性そのものが、欲望を拡張するのである。この近接性は、「象徴的な」関係をより「想像的な」関係に近づけることによって、「より似たもの(近接したもの)を欲望する」というパラノイア的な欲望を加速させる。

これが、科学技術が欲望を加速させ、欲望が科学技術の発展を加速するという、近代以降の進歩の構造であり、現在その加速性の恐怖から、エコロジーなどの抑制のイデオロギーが生まれている。




「なぜそこにボクたちがいないのだろうか?」


タイタンの地表写真が送られてきたとき、達成感と共に、すでにそこになにもない、地球上のどこにでもあるような風景であるという消失感ともに、すでに一つのパラノイア的な欲望=似たもの(近接したもの)を欲望する、が含まれている。科学技術によって近接されたことによる「なぜそこ(タイタン)にボクたちがいないのだろうか?」という「想像的な」欲望である。

そして、この近接した「リアル」(想像的)な欲望と、実際ははるか遠くの、ボクたちが死ぬまでにはとても到達し得ないだろう地点であるという神話への欲望の差異が、「宙づりにされたような」気持ち悪い感じにさせるのではないだろうか。


ボクですか・・・生きていることが宙づりだとです・・・ヒロシです・・・