(2ちゃんねる哲学板)なぜ細木数子はみんなを引きつけるのか?

pikarrr2005-01-29

112 :考える名無しさん :05/01/28 21:52:04
今の日本の言論界で、国民に浸透力のある言説をただ一人放っているのは細木数子*1だけだよね、絶対。さっき、その人がテレビで言ってたけど、このままで行くと日本国民はあと15年ぐらいで全員、餓死するのだそうです。まあ、オーバーだけど、あながち間違っていないような気もする。高齢者が多いし、若い層がニートとネットでお茶を濁してぼやーっとしてれば、自然にそうなるよね。

女性天皇の問題にも言及して欲しかった。これ、将来実現する可能性高いと思う。私が予想するに未来からやって来る新しい哲学者もきっと女性であり、それは科学的というよりもシャーマン的な実存を多分に有しているでしょう。なぜかと言えば異常に分断化された情報化社会では、専門家の個別的な見解などよりも、そうした言説の方が包括的に社会を把捉し、そのイメージや問題点などをより良く、一般人に伝達することができるから。


114 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/28 22:54:38
細木数子は視聴率を取っている意味で、シャーマンとしては成功しているといえなくもないですが、現代のシャーマンはより科学的でなければ、科学という神話を語るものである必要があるでしょうね。その意味では、ビルゲイツとか、グリンスパンとか、小泉とかの方が、シャーマンでは?

シャーマンとは、未知=謎に対して新たな神話を語るものです。現代における、科学者もシャーマンであるわけです。ようは、科学とはなにか、ということですが、それは、「多数の同意」の上にしか成り立たないと言う意味で、現代のもっとも支持された神話であるわけです。


116 :考える名無しさん :05/01/28 23:09:59
いや、シャーマンは未知を紐解く単なる語り部、解説者というよりも、その御当人自身がヴェールに覆われた深遠を持つ謎のようなものでしょ?何かが降りて来てるんだから、ああした特殊な能力で私達の平均的な既成概念や象徴界を宙吊りするような能力を楽しそうに発揮してるという訳ですよ。

それとオウム的な問題を振り返れば、その「多数の同意」を得られる筈の科学の価値体系だけでは決して生きられないという実存的な問題が一部の人間に発生して、その信者たちは破滅したのであるけれども、科学的な真理値だけではレゾン・デートルを決して見出せない、みたいな層はまた結構出て来るんじゃないの?それで、引きこもりやニートなどの人達にもそういう部分があるのかな?って。幻想的に母胎回帰して、なんとか精神を維持してるみたいな感じではなくって?ネットの中だけで何かをしようと企図する人間にも、それに似た感触を覚えるね。


122 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/29 00:52:40
「シャーマン」のとらえ方の違いかな。「シャーマン」という時代遅れ、うさんくささという意味が含まれているという意味での「シャーマン」ということかな。そうではなくて、「シャーマン」の原理的な、本質的な意味に踏み込むと、「科学は呪術である、科学者はシャーマンである」ということが見えてくる。すなわち謎(タブー)をシニフィアンへと転換し、人々の「多数の同意」を元に神話を提供する、という意味で。

だから、科学/非科学の境界でものを言っても仕方がない。確かにより科学的な(反証可能性が高い)言葉は、分節化が進んでいるという特徴から人の余剰を乗せにくい。たとえば、「歌手にありたいから、がんばる」という人に対して、「統計的に歌手として成功するのは、約0.003%しかない」といってしまうことは思い入れをくじく。そして科学が現代では、分節化が進みすぎている故に、もはや専門用語が理解できない。故に、シャーマン的になるということ。医者は、科学的に理解できない専門用語を並べ立てることによって、信用される、みたいなこと。

実は、オウムの成功も、このような面をもっていると言われているよね。宗教的な用語を科学的な専門用語のように構造化することによって、煙に巻くというか。だから科学的なものをうまく利用している。サリンをつくったりした科学省?みたいなものがあったり、コンピュータを製造販売したり。


126 :考える名無しさん :05/01/29 01:35:37
122にはほぼ同意。

だから、一般社会の枠組みから自発的に降りてしまっている人たちは、このスレタイとは逆に、まなざしが快楽には少しもなってなくて、その理由は色々あると思うし、自分にはよく分からないけど、他者のまなざし(価値体系・フレーム)がその人にとって不快及び、苦痛の対象になっているからこそ退却というか、一種の退行の様相を呈してしまっているんじゃないの?ネットだと多少は匿名化されるから、そうした人でも何とかコミットできるスペースとして機能できるというか。

それと眼差しと言っても、それはあくまで差異の戯れ、限度ない相対化の海にユラユラして船酔いしているような状態だから、そういう人にはニヒリズムが形成されやすいのでは?そして平面的なその戯れに耐えられない人たちが、今度は極端な垂直的価値にフルコミットしてしまうというのも分かるんだけど、私は、こうした宗教的なモノ(言説)がこれから必要になって来る人が増えると思うな。科学の価値体系や資本の論理、あるいは生理学的な快・不快だけでは回収できないような、形而上学的なファクター。まあ、バランスなんだけど結局は・・。


127 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/29 02:39:37
まなざされることの不快は、まなざしの快楽から来ているということですね。たとえばフーコーパノプティコンのように、まなざしは、人をある価値(シニフィアン)へ拘束する力を持ちます。この拘束されるということは、象徴界への参入であり、「私」の獲得でもある。だから本質的にこれは快楽なのです。

ここでも快楽と、不快の関係を、単純な例で説明すると、裸で生活するのは、いやなので、服を着るわけですが、その服は他者からもらうしかない。しかし必ずしも自分の気に入った服をもらえるとはかぎらない。でも裸でいるよりもましであるということですね。

このように考えると、「一種の退行の様相」というのは、豊かになり、価値が多様になっているために、服をもらえる他者を選ぼうとしているわけです。今までなら、家族や学校など地域的な社会の他者から服をもらうものだった。でも往々にしてダサイですよね。親の勝ってきた服なんって。だからもっと広く「他者」を捜す。それは、社会性(現前性)を越えていく。オタクのように趣味を同じくする、そして現前で会うことはない他者、ネットコミュニティ上の趣味を同じくする、匿名の他者などに向かうわけですね。さらにいえば、他者の多様性は、「もらえる服」の交換の早さにもつながります。次々に他者を交換していく。これは、欲望と満足のサイクルの加速化、すなわち動物化ということですね。

このような最強の他者は、神ですね。完全に満足する「服」を提供してくれるわけですから。しかし「神は死んだ」のですから、そんな超越的な「服」は望めないわけです。だから、趣味、消費、ネットコミュニケーションの無効の他者へ目指すわけです。そして現代の「宗教的なモノ(言説)」も、その一つでしかない。モーヲタであることと、オウムに入信することに大差はないわけです。あえて言えば、つんくよりも麻原の方が、マインドコントロール技術に長けているわけですね。現代において、科学の価値体系、資本の論理などは、リアルであるから、それをうまく使うことで人々がより魅力的と感じる「服」をつくることができる。一つのアイテムということです。


131 :考える名無しさん :05/01/29 02:55:47
米国でもイラクでも神は健在じゃないのかな?


136 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/29 03:14:14
まず神には二種類あります。宗教的な神と内的な神(超越的な他者)です。内的な神(超越的な他者)はだれの中にもある「まなざし」です。たとえば、誰でも頭では疑っていても、運命、奇跡をもっていまし、神聖な気持ちになったりします。宗教的な神は、体系的な言説によって、人々の内的な神(超越的な他者)を同期させるものです。ニーチェ「神は死んだ」と言って時には、キリスト教的な神=宗教的な神への盲目的な信仰の終焉を言ったわけです。米国、イラクでの信仰心は、体系的な言説への信仰の強度ということになります。米国はよくわかりませんが、イラクでは強い強度が残っているのでしょうね。


155 :考える名無しさん :05/01/29 03:42:57
哲学史における「神は死んだ」という言説は、どちらかと言えば教会的な権威やそこで生産されて来た宗教的な言説が科学の勃興で相対化(無化)されてきたというだけであって。イスラム原理主義者などは、今でもアラーのために殺人までしてます。

「服」は、まあ「承認」「幸福」と呼び換えてもいいのかな?と思うけれど、そうした凡庸なパーツいじりとシーニュの組換え、操作に、人はやがて飽きるだろうし、またそんな自由がずっと許されていることもあまりないんじゃない?厳しい現実は、誰にでもいつか襲ってくるし。趣味に戯れてばかりもいられないでしょ?仕事でやってるならいいんだけど。コスプレ好きの女子が老人になった時、それをまだ10代の頃のように楽しめますか?

宗教的な聖性さえもまた消費化の対象になり、容易にツール化、アイテム化されてしまうという意見には納得なんだけど、ただ、人が人生の途上で大きな困難や苦難に遭遇した時に、そうした遊びレベルの宗教感覚ではなく、もっと本格的にその苦難を超越論的な次元でポジティヴに意味付けたり、あるいは癒すことのできるような言説、イデアが多少はあるといいのでは?と思ったけど、よく考えると難しいなぁ。


160 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/29 03:59:47
私は、近代の根底にテクノロジーの進歩を考えています。「神を殺した」のも宗教的言説から、科学的言説への転換ですね。その意味で現代は情報化社会、言説が高速で飛びかう状況=象徴界の活性化」とということだと思います。そして、このようなダイナミックな状況が、「もっと本格的にその苦難を超越論的な次元でポジティヴに意味付けたり、 あるいは癒すことのできるような言説」というスタティック(静的)な言説を絶えず揺らしているのです。

だから、「凡庸なパーツいじりとシーニュの組換え、操作」「自由」であるが、また不安定、「不自由」ともいえます。最近の老人たちの楽しみはなんでしょうか。ペットへの過剰な愛情?宗教というコミュニケーション場であり、イベント場への参加?

最近、知識人の中で流行っているのは「自由とはなにか?」 ですね。情報化社会、言説が拘束で飛びかう状況=象徴界の活性化というダイナミックな中で、スタティック(静的)な「倫理的」「自由」をどう構築するのか?という難しさが、思考の「楽しみ」になっています。


しかしボクたちはまたシニカルで居続けることはできない。いつまでも流行を追い続けることができないし、コミュニケーションを否定することはできない。いつかはどこかの静的な知識に帰属し、「私とはなんであるか」を見いだそうとして、リアリティを勝ち取ろうとする。このような「ナイーブさ」と「シニシズム」は共存するのである。

なぜボクたちは利己的であるように振るまうのか? http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20041029#p1



なん度かいっていますが、二面化しているということはよく言われていますね。オウム、モー娘。細木数子などへの純化した傾倒は、「ナイーブさ」と言えるでしょう。 というか、細木数子ってみんなエンターテイメントとして楽しんでいるだけだと思いますが、この象徴界の活性化された時代、あそこまで強気の、断言的な言説ができることは、すごいな思いますね。ある意味「天然」で、そして自虐的なのではないでしょうか。

「天然」=自分の言説に自分で信じること、そして自虐的であることは、まなざしを「捏造」する力に繋がり、シャーマンであるための大切な特質だとは思います。