なぜリストをカットするのか? 大澤真幸「現実の向こう」 <収束するポストモダン その2>

pikarrr2005-03-18


「現実の向こう」


大澤真幸「現実の向こう」(2005/01)ISBN:4393332288日本国憲法の問題として「僕らが他者の不確実性=他者性自体に耐えられなくなっている、そのときになお、どうやって戦争を排して他者達を共存し、連帯することが可能なのか」という基本問題、そしてこれからのオウム真理教のあり方について、具体的な提言している。その提案が理想論であるなどつっこみはいくらでもできる、またできることを大澤氏自体も承知しているだろう、それでも提案する、という意欲作?である。




理想の時代と虚構の時代


この中で、大澤は戦後日本を、「理想の時代」「虚構の時代」「不可能性の時代」と分類している。

<理想の時代 1945年から1970年まで>

・西洋の近代200年が1945年以降の日本にミニチュア的に詰まっている。「理想の時代」「モダン」に対応

・何が理想であるかに関して広い社会的合意があって、きわめて明確な時代

アメリカとソ連が基本的な覇権国として存在しており、「理想の時代」の社会的理想が、きれいに冷戦に対応。アメリカに象徴される「自由と民主主義」、もしくはソ連に代表されるところの共産主義、が理想の社会のイメージを与えた。特にインテリにとって

・1960年代は高度成長期。個人の理想を象徴する言葉は「マイホーム」「マイホーム」という語の象徴されたライフスタイルにおいて、アメリカの中産階級の生活」が理想を象徴する。

<虚構の時代 1970年からオウム事件が起きた1995年まで>

・ミニチュア的にポストモダンに対応

・この時代の象徴が東京ディズニーランド。ディズニーランドの各ゾーンは、「現実」シミュラークルであり、虚構ですが、ファンタジー・ランドだけは、参照点になっていく「現実」が、それ自体、「虚構」である。

・社会風俗面の代表は「おたく」「意味の持っている重要性と情報の密度のあいだに逆立ちがある。」意味的に希薄で、情報は濃密。

・おたく現象の最後に、おたくがそのまま宗教になっているみたいな95年のオウム真理教事件が起きた。

まず「理想」「虚構」の言葉の意味を確認しておきます。・・・どちらも現実ではないものですから、広い意味で可能性あるいは両方とも現実ではなく可能世界です。・・・「理想」は、それを「めざす」ものですから、現実のあいだにリンクがあるわけです。理想は、やがて現実になることが予定され、期待されている。現実とのあいだに因果関係があると想定されている。それに対して、「虚構」として意味づけられている反現実は、現実との間に、必ず因果関係がなくてもいい。・・・「理想」「未来の現実」ですから、広い意味で現実のうちに入る。虚構はそうでなくてもいい。理想は現実と地続きですが、虚構はそうではないわけです。

P103 大澤真幸「現実の向こう」




「現実への逃避」

「理想」から「虚構」へという転換は、反−現実の現実からの乖離の度合いが、つまり反−現実度が、大きくなる過程だといえます。・・・虚構は現実から乖離し、逃避する度合いが大きく、理想は現実への距離がより小さい。・・・つまり戦後に流れを見た場合、参照点となる「反−現実」が、現実からの乖離の度合いを時間とともに大きくしてきた、と結論することができるわけです。

ところが、それにつづいて現在僕らが見ている現象は、こうした傾向、つまり現実から次第に乖離していくという傾向が反転させてしまうような現象ではないか。つまり、現実「からの」逃避が、現実「への」逃避へと転換しているように見えるわけです。しかも「現実への逃避」と言ったときの「現実」というのは、普通の現実ではない。「現実の中の現実」「現実以上の現実」、現実のまさに現実性を体現しているような激しく、暴力的な現実です。

P123 大澤真幸「現実の向こう」

<不可能性の時代 1995年から>

・オウムの虚構(ハルマゲドンとそのあとのユートピア的世界)はそのまま革命的な理想になっている。つまり虚構自体が理想として機能。現実の方へと一歩回帰している。

・オウムが欲望しているのは暴力的現実。トラウマになりかねない破壊的現実。通常の現実を越える、真の現実への希求がある。

「リアルな現実」への情熱。暴力的破壊的現実

「現実の逃避」と言わなくてはならないような現象が、だんだんせりだしている。現実の不足に苦しんでいる。

リストカットのような自傷行為。トラウマになりかねないような暴力的な現実へあえていく逃げていく例。痛み以上に直接的な現実はない。身体にとってもっと強烈な感覚、直接的な感覚を通じて得ようとするのが、自傷行為である。

「多重人格(解離性同一性障害)」の増加

・現実こそが最高のアトラクションになる。現実の日常生活そのものをひとつのショウとして映し出すリアリティ・ショウ、リアリティ・ソープと呼ばれるTV番組の登場。こういう番組を見て、現実の飢えを癒そうとする。

<現実>とは、第三者の審級の不在−その不在を前提にしたこの世界のあり方−です。それは超越的な他者を失い、他者の異様なまでの密着性に苦しみを覚えるような世界です。「現実」へ逃げ込むことで、第三者の審級を−裏返した形式で−かろうじて回復することができるのではないでしょうか。たとえば、オウムにとっては「ハルマゲドン」−世界の破壊−が、現実以上の現実、つまり「現実」でした。「現実」を想定することで、「最終解脱者」としての麻原という形態で、第三者の審級を取り戻すことができているのです。

僕の理論では、第三者の審級こそは、人が現実を−あるいは可能世界を含む宇宙全般を−体験するための構成的な条件です。第三者の審級は、われわれが何者かを認識し、為しえるための超越論的条件を提供しているわけです。だから、<現実>は、原理的に体験不可能なものです。つまり「現実」への逃避を駆動させているのは、この体験不可能なものなのです。

P195 大澤真幸「現実の向こう」




収束するポストモダン


大澤の「理想の時代」「虚構の時代」「不可能性の時代」という流れは、ボクのいうポストモダン臨界点の前後の拡散過程、収束過程に近い。

「人間」はどのような多量な情報量にさらされ、主体性がゆらいでも必ずどこかに主体性を収束させる。それが一時的なものであっても、その担保がなければ「人間」でいることはできないだろう。だから拡散と収束は、まさにコジェーブ的な動物と人間の間の、ボクのいう「偶有性と単独性」の間のゆらぎであるといえる。そしてポストモダンにおける情報テクノロジーの発展は、そのゆらぎを大きくしているのである。

ここには、ポストモダンの臨界点を見ることができるのかもしれない。すなわち宗教であれ、思想であれ、モダン的な主体性が確保されており、それが拡散していく(ことが問題視される)過程。ポストモダン的な脱構築アイロニズムシニシズムはこのような拡散過程への視点である。

それに対して、情報テクノロシーの進歩によって、確保すべき主体性がある程度拡散し、希薄になり、逆に、どこに主体性を収束されていく(ことが問題視される)過程。北田氏のしめすロマン主義、ロマン的な対象、あるいは「感動の全体主義、大澤の「アイロニカルな没入」がそれに対応するだろう。

なぜ2ちゃねらーは「藁(わら)い」ながら「没入」するのか? http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050306

「モダン」的な主体が確保されて、それが拡散していく(ことが問題視される)過程」=現実からの乖離の度合いを時間とともに大きくしてきた「理想な時代」から「虚構の時代」への過程に対応することができる。

さらに、「確保すべき主体性がある程度拡散し、希薄になり、逆に、どこに主体性を収束されていく(ことが問題視される)過程」=現実から次第に乖離していくという傾向が反転させてしまうような現象。つまり、現実「からの」逃避が、現実「への」逃避へと転換される、に対応させることができるだろう。

ただボク自体はあまり年代を当てはめることに意味を見いださない。このような拡散と収束は、主体そのものがさらされる環境との根元的な関係であり、ポストモダンにおいて拡散が活性化されていることによって、その反動として収束も強く現れ、「現実への逃避がせり出してくる」ことが強調されるということである。




生理的なものへの傾斜


その中でも特に、興味深いのが、大澤が人々が向かう現実として、「暴力的破壊的現実」を指摘している点である。たとえば大澤は、リストカットについて、次のように語っている。

身体にとって、痛み以上に直接的な現実はない。あらゆる他の現実の前提となるような現実、現実の究極の根拠でもあるような現実、それは「私がいる」「私がいまここにいる」ということです。それならば、「私がいる」ということについて、どうやって確証を得ることができるのか。その確証を、身体にとってもっと強烈な感覚、直接的な感覚を通じて得ようとするのが、自傷行為ではないでしょうか。「いま、ここが痛い」ということを通じて、「私が、いまここにいる」ということを確認しようとしている。つまり「痛みの実存」「実存の痛み(実存の実感)」へと転換しようとしているとする試みが、リストカットに代表される自傷行為であると、僕は解釈しています。そう考えると、9・11テロや地下鉄サリン事件をはじめとする、原理主義や過激なナショナリストが起こすテロは、いってみれば社会のリストカットじゃないか。リストカッターが、自分でも制御しがたい不可解な衝動で手首を切ってしまうように、われわれの社会は社会の集団的な無意識によって、自己破壊を何度も何度も繰り返しているのではないのか。そんな印象すら生じます。

P126 大澤真幸「現実の向こう」

これらで見いだされるのは、「生理的なもの」への傾斜では、ないだろうか。ボクは、現代のシニカルな社会の中、リアリティを確保する方法として、「身体的な苦痛」に向かっていることを以下のように指摘した。

今回の27時間テレビでも、極楽加藤のマラソンは明らかに日本テレビの24時間テレビのマラソンというベタのベタなパロディです。加藤のマラソンが中継されるごとに、みなが軽くあしらい続けることによって、加藤がやっていること自体がかっこわるいベタなことであることが強調されます。それでも加藤が画面に登場するごとに、ほんとうに顔がやせ衰えていくのです。そのベタさとやせ衰えていく身体性とのギャップにリアリティが生まれるわけです。ベタを一生懸命演じる身体的な苦痛によって、リアリティを確保しているわけです。

たとえば、SMAP中居が、SMAPの歌内にスタジオにたどり着くように、炎天下懸命に自転車をこぐことも、ベタなぼけであることは、だれもが了承しています。しかし彼が一生懸命ぼける身体的苦痛はリアルなわけです。当然、岡村のボクシングもそうです。めちゃイケのスタイルとは、ベタを一生懸命やることによって、リアリティを確保するということです。たとえば岡村のチャレンジシリーズにしてもそうですが、多くにおいて、身体的な苦痛によってリアリティを確保するという自虐的なスタイルです。たとえばしりとり侍が放送禁止になったのは、しりとりで負けたものがいじめられることそのものよりも、めちゃイケスタイルでリアリティを確保するためには、敗者は身体的にほんとうに苦痛なほどにいじめられる必要がある故に、放送禁止になったのですね。

なぜ加藤浩次は走らなければならなかったのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20040807




「生理的なもの」を介する「まなざしのネットワーク」


しかしボクは、この「生理的なもの」への傾斜を、単に大澤のいうような「痛みの実存」「実存の痛み(実存の実感)」へと転換するという自己完結的な行為だけにみることはできないと思う。ここにあるのは、他者との、そして集団内の共有としての対象として、「生理的なもの」が要請されているということだ。だからリストカットという行為は、自己の実在を確認する自己完結的な行為ではない。リストカットという行為には、そこには他者のまなざしがある。他者に見られながら、他者と痛みを共有することによって、「私がいまここにいる」ということが確認されるのである。

たとえば、北田は「嗤う日本のナショナリズムの中で、収束点として、「感動の全体主義であり、ロマン主義(合理主義に反抗し、感情・個性・自由などを尊重)をあげ、さらには東は動物化という自足的な欲求の満足を求める傾向を示しているが、そこにも同様な「生理的なもの」による共有という傾向をみることができるだろう。

問題になっているのは、感動そものではない。感動を媒体として築き上げられる送り手=受け手の共犯構造、テレビ的フレームによって世界全体を包摂し尽くそうとする(=世界をことごとくテレビの素材へ転化しようとする)不遜な欲望こそが、問題なのだ。感動ものの迫り出しは、アイロニーを制度化する純粋テレビの論理がもたらしたなかば必然的な帰結だったのである。感動と純粋テレビ的方法の共犯は、スポーツを題材とした番組だけに見受けられるものではない。「猿岩石ヒッチハイクウリナリ!!」のチャレンジ企画、未来日記

太田省一は、こうした90年だ(とりわけ後半)における「感動」の前面化を、「自他の境界を保持したままで「仲間」空間の「感動」を体験でいるという事実」を指し示すものとみている。それは「24時間テレビ」のような自他の境界線を希薄化させ、感動の共同体を構築することによって視聴者を巻き込んでいくようなものではなく、「企画自体をおもしろがっている」視聴者たちの奇妙な「仲間」空間」の存在を前提として、外部(他)を疎外した仲間内的(自)な「感動」を生み出していく。アイロニカルな視聴者たちの共同性を担保に「感動」というテーマ系が反復される。

P181-183 北田暁大「嗤う日本のナショナリズム

ここにあるのは、他者の欲望を欲望するという欲望の理論であり、象徴界の構造である。メタメタメタ・・・なアイロニカルな社会においては、大澤がいうように、他者との共有を大文字の他者第三者の審級)という象徴界(言語世界)に求めることは困難になっている。どのような言説もメタ的な指摘によって、流動化し、リアリティを持ちにくくなっている。その中で要請されるのは、根元的な「生理的なもの」である。リストカットの痛み、マラソンでやせこける頬、純粋テレビ的感動は、「身体にとっての直接的な現実、あらゆる他の現実の前提となるような現実、現実の究極の根拠でもあるような現実」という、言葉がなくとも誰でも共有される究極のものだろう。そしてそれによってかろうじて象徴的な「まなざしのネットワーク」を形成しているのである。




現実界へ危険な接近による没入


このまなざしのネットワークにおいて、ボクのいう拡散と収束、北田のいうロマン主義シニシズムという二重構造が可能になる。本来あるべき理性的な象徴界は、シニカル化、アイロニカル化され、流動性が高くる。この「拡散層」ではリアリティを確保し、共有することが困難になり、「まなざしのネットワーク」の形成が困難になる。そのために、「生理的なもの」のような象徴界における現実界との近接部の流動性の低い「収束層」で、リアリティは確保され、共有され、「まなざしのネットワーク」が形成される。

しかし現実界という「ものそのもの」を本来人間は認識することはできない。現実界への接近は「人間」そのものを解体する故に、象徴的なものによって隠されている。しかし拡散層によるネットワークが困難になる中で、リアリティ(すなわち他者からの価値承認)は、現実界というこの「危険な近接」がなければ、獲得できないのである。これが、大澤のいうように、現実を「暴力的破壊的」なものへ向かわせることになる。

たとえば、2ちゃんねるの祭りは、祭りそのものが目的であり、それによって現実を獲得しようとする行為である。そこでは往々にして、あびる優などのように、「生け贄」が必要とされる。「生け贄」への「暴力的破壊的」で、シニカルな発言の数々によって、生まれる生理的なもの=「全体主義的な高揚感」が、収束層となり、「まなざしのネットワーク」が構築される。この没入は、本来の象徴界としての言説化された主体性はきわめて薄い。このためにどのような「反論」も意味をなさない「主体なき巧妙な没入」として現れるのである。



ボクですか・・・ワカパイの谷間に主体なく没入したいです・・・・・