なぜ「剥き出しの生」を求めるのか? 東浩紀・大澤真幸「自由を考える」 <収束するポストモダン その3>

pikarrr2005-03-19


身体になにが起きたのか


東浩紀大澤真幸自由を考える 9・11以降の現代思想(2003.4)ISBN:4140019670 *1にも、ボクのいう「拡散と収束の二重構造」に近いものが記されている。

それは、ジョルジュ・アガンベンの身体の二重性を元に示されている。

生物的身体(ゾーエー) → 動物化の層(剥き出しの生) → 情報技術。データーベースに管理される層

政治的身体(ビオス) → ヴァーチャル化の層(象徴的なネットワーク) → 多様性が演出される層

アガンベン自身は、現代社会ではこのゾーエーとビオスの区別がなくなっていると記しているが、東は現代社会で起きているのは、政治的な身体の場はどんどんシミュラークル化、ヴァーチャル・リアリティ化、「スペクタクル化」し、そして生物的身体と大きく乖離し、それぞれが不調和のままラディカルに突き進んでいるという事態だ」という。

20世紀前半くらいまでの哲学者が、「人間的」だと考えていたものを極端に純化していったときに、データーベース化した世界であると同時に動物化したポストモダンであるような世界が逆に出てくる。人間化の極点に動物化が出てくるみたいな、そういう構造が描ける。(大澤)

この乖離を短絡しようとする例として、以下があげられている。

・オーム真理教の政治的な身体を形作る物語はヴァーチャル化し、シミュラークル化している。他方において、頭に特殊な装置をつけたり、ドラッグを使ったり、よりストレートなリンチなどの暴力を使ったり、剥き出しの身体管理を行っていた。

酒鬼薔薇聖斗事件。酒鬼薔薇聖斗というヴァーチャルな名を経由して、世界に根をおろし、存在の透明性を克服する操作が、身体への、凄惨なまでに剥き出しの暴力だった。

2ちゃんねる、チャット、メールにおける貧しいコミュニケーションというビオスの希薄と、他方で音楽、映画など身体的快楽に奉仕する装置、ゾーエーを豊かにする装置は満ちている。

2ちゃんねる、ケイタイによる内容のないつながりだけを確認するコミュニケーションは、「純粋な関係性」であり、動物的であったり、機械的であったりする。

・ギャルゲー、美少女ゲームは、実際にはポルノだが、物語には純愛、つまり「純粋さ」「ピュアさ」への強い思考がある。

・出会い系、アニメほしのこえ。一方に「愛」というのはしょせん性欲処理にすぎないという剥き出しの身体性への回帰、他方には「愛」というのはもはやコミュニケーションではなく運命なのだ、というきわめて抽象化された観念がべったりくっついている。




動物化か、まなざしの快楽か


ここにある「身体の二重性」とボクのいう「拡散と収束の二重化」にはいくつかの相違も見いだせるだろう。まず「なぜリストをカットするのか?  収束するポストモダン その2」*2でも指摘したように、ここでも「生物的身体(ゾーエー)→動物化の層(剥き出しの生)」、ボクのいう、「生理的なもの」への「収束過程」は、自己完結的に動物化されたものではなく、そこには「まなざしの快楽」が働いているということである。

しかしボクは、この「生理的なもの」への傾斜を、単に大澤のいうような「痛みの実存」「実存の痛み(実存の実感)」へと転換するという自己完結的な行為だけにみることはできないと思う。ここにあるのは、他者との、そして集団内の共有としての対象として、「生理的なもの」が要請されているということだ。だからリストカットという行為は、自己の実在を確認する自己完結的な行為ではない。リストカットという行為には、そこには他者のまなざしがある。他者に見られながら、他者と痛みを共有することによって、「私がいまここにいる」ということが確認されるのである。

ここにあるのは、他者の欲望を欲望するという欲望の理論であり、象徴界の構造である。メタメタメタ・・・なアイロニカルな社会においては、大澤がいうように、他者との共有を大文字の他者第三者の審級)という象徴界(言語世界)に求めることは困難になっている。どのような言説もメタ的な指摘によって、流動化し、リアリティを持ちにくくなっている。その中で要請されるのは、根元的な「生理的なもの」である。リストカットの痛み、マラソンでやせこける頬、純粋テレビ的感動は、「身体にとっての直接的な現実、あらゆる他の現実の前提となるような現実、現実の究極の根拠でもあるような現実」という、言葉がなくとも誰でも共有される究極のものだろう。そしてそれによってかろうじて象徴的な「まなざしのネットワーク」を形成しているのである。

なぜリストをカットするのか?  収束するポストモダン その2 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050318

たとえば、先の例や、東のいうオタクという収束過程は、動物化か。2005年03月14日のブログで東はこの点について言及している。

 笠井氏と北田氏は(さらに付け加えると——詳しい説明は省略するが——僕の動物化の時代を「不可能性の時代」と言い換えようと提案している大澤真幸氏も)、全共闘から新人類(とオタク第一世代)へと受け継がれたメタゲームの果てに、いまの動物化現象があると考える。僕は、『動物化するポストモダン』でも、またそれ以降も繰り返し主張しているように、そうは考えない。僕の主張は単純に、メタゲームはもう必要とされていないのだ、なぜならば現在のネットワーク環境は(それがいいか悪いかはともかくとして)みんながまったり動物的に生きる文化的世界を用意したから、というものである。・・・それはおそらくは、第三者の審級がない」ということの「ない」の意味をどう捉えるか、という世界観の違いによるものである。

「渦状言論」東浩紀 http://www.hirokiazuma.com/archives/000127.html 

ボクはオタクもアニメなどの対象を介して、他者の欲望を欲望する、アニメの先に他者を見ている「まなざしの快楽」であると考える。そこでも象徴界第三者の審級)は、機能している。

先の例であり、オーム真理教事件、酒鬼薔薇聖斗事件、リストカット2ちゃんねるやケイタイなどネットコミュニケーション、北田のTVにおける「感動の全体主義ロマン主義シニシズムなどなど、そこにはまた他者の欲望への欲望、それは多くにおいて「他者の欲望を欲望したくない」という逆説的な形をとりながらも、他者との関係性が確保されている。動物化でなく、「人間」でありつづけたいという欲望がある。

拡散層・・・本来あるべき理性的な象徴界は、シニカル化、アイロニカル化され、流動性が高くなる。この「拡散層」ではリアリティを確保し、共有することが困難になり、「まなざしのネットワーク」の形成が困難になる。

収束層・・・「生理的なもの」のような象徴界における現実界との近接部」流動性の低い「収束層」で、リアリティは確保され、共有され、「まなざしのネットワーク」が形成される。

それは、主体なき自己組織的なものとして、「アイロニカルな集団的な、主体なき没入」として現れているのではないだろうか、というのがボクの考えである。しかしこの点はあまり単一の答えに還元することに意味はないのだろう。


ボクですか・・・人間ですが、なにか?