なぜジェットコースターに乗るのか

pikarrr2005-05-08


ジェットコースター化する社会

ジェットコースターという「疑似不確実性」


しかし、東浩紀のいうように「まったり」「動物」として生きていくことに耐えられなくなっている。このような状態に、閉塞感を感じ、「人間」であろうとする揺り戻しが起こっている。それは、不確実性を欲望することによって、主体の取り戻しそうとすることが起こっているのであり、そのためにこのような閉塞した社会で自ら、不確実性を作り出さなければならないのである。

たとえばジェットコースターという乗り物は、安心して暮らせるように社会から排除した恐怖を、自ら作り出し、生の緊張感を味わうのである。それは本当の恐怖ではない。それは管理された恐怖である。この作られた不確実性が、まさに現代の「生き生きしたもの」である。そしてそれによって、私が私であることを確認するのである。

なぜ「生き生きしたもの」を求めるのだろう 塚原史ボードリヤールという生きかた」 <収束するポストモダン その7> http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050505

ジェットコースターという乗り物の意味は、まさに社会が安心化していることである。安心して暮らせるように社会から排除した恐怖を、自ら作り出し、生の緊張感を味わうのである。それは本当の恐怖ではない。それは管理された恐怖である。安心故に、不安を求める。安心した社会を求める中で、逆説的に不安を作り出さなければならない、ということ。すなわちこのバランスの上に人が立っていることを表している。

それは「カオスの辺縁」*1での綱渡りである。作られる不安は、安心すぎてはいけない。すなわち先が見えるものではいけない。どこからに先の見えなさ、不確実性への期待が内在されていなければならない。

そのためにこの綱渡りから転落する者も出てくる。管理された不安を踏み外し、より不確実なものへ踏み出す。ジェットコースターからバンジージャンプ、そしてチキンレースロシアンルーレット?それは自己破滅へ踏み出していく。特に、賭け事、売春、ドラッグが国によって規制されるのは、このような不確実性を内在し、綱渡りから転落し、自己破滅へ向かいやすい故に、規制されるのである。




不安のリアリティ化


テクノロジーは、このようなニーズを吸収しようとする。自己破滅へ向かわないように、安心な、より「リアリティのある不安」を作り出すことが目指される。ヴァーチャルな不安がジェットコースターのような遊具や、映画、そしてゲームなどでつくりだされる。

環境管理、あるいは人間工学は、「これは、管理され、安心なんだ」と理解の下を潜るように、無意識、さらには生へより近接したところの不安が目指される。このような現実界への近接」において、リアリティは求められるのである。

「ジェットコースター化」の意味は、まず社会が安心化し、人々に不安への渇望が起こっている。簡単には退屈であるということだ。そしてそれが安心であることを理解していること、二にそれ故に不安が楽しむものであること、三にその不安にリアリティを持たせるために、生理的な部分へ働きかけることである。

これは一種の騙しあいである。テクノロジーによって、新たな「リアリティのある不安」が作られるが、それは消費され、慣れる。さらに「リアリティのある不安」が目指される。このような切磋琢磨の中で、ゲームや、映画などのバーチャルリアリティは、現代の不確実性の多くを担っている。




他者という不確実性


しかしテクノロジーはまだまだである。最大の不確実性とは、現代も「他者」なのである。最近の携帯電話、ネットの普及は、他者とのコミュニケーションゲームを人々が求めている為である。テレビゲームなどでプログラミングされたものは、よりリアリティをもち、おもしろものになっているが、しかし他者のもつ不確実性、次に何が起こるのか、どう反応するのか、という面白さには、映画やテレビゲームのヴァーチャルリアリティはまだまだ勝てないのである。最近では、多人数参加型のネットワークゲームが流行っているが、これにはまって人にはそのおもしろさはわかるだろう。これも一つの他者とのコミュニケーションである。

「実社会」の他者とのコミュニケーションでは、社会性によって、必要以上の接触、そして不確実性は排除されている。その場に適したように人々は振る舞う。逆には他者とのコミュニケーションの刺激を隠すためであるといえる。それがネットコミュニケーションでは、コミュニケーションそのものが目的化されるという了解のために、解放される。少し前に小学生がネット上のいざこざから同級生を殺したように、そこには不確実性が露出しやすいというように刺激的なのである。

最近では、多くの2ちゃねらーはすでにそのような不確実性に慣れて、パターン化されている。ブログという新たなコミュニケーションゲームへ流れている。しかし(いまもあるのだろうか)、かつてはまるで人格をかけたような過激で、興奮する論戦が行われていた。それでも、2ちゃんねるであり、メールであり、ブログの面白さも、何かが起こるのではないだろうか、という期待であり、そしてその不確実性のもとは、他者である。人々が集まるところに、人々が集まるのであり、それは渋谷などの街であり、2ちゃんねるであり、ディズニーランドであり、マクドナルドであり、ワールドカップであり、「生き生きしたもの」の源泉は、不確実性であり、不確実性の源泉は現代も他者である。*2


ボクですか・・・金だしてまで、ジェットコースターにのる、怖い映画を見る意味がわからん派です。