なぜ「生き生きしたもの」を求めるのだろう 塚原史「ボードリヤールという生きかた」 <収束するポストモダン その7>

pikarrr2005-05-05


ボードリヤールという生きかた」


塚原史ボードリヤールという生きかた」(2005/04)ISBN:4757141130ジャン・ボードリヤールの仕事と人生について書かれた日本で初めての書物」らしい。まさに入門書というようにわかりやすく書かれている。いままで入門書がなかったのは、ボードリヤールの言説は、もはや当たり前すぎるものになっているからではないだろうか。

本書から、「物の体系」(1968)、「消費社会の神話と構造」(1970)、「象徴交換と死」(1976)のボードリヤールの言説をまとめると、

1968 『物の体系』

消費を経済的活動よりもむしろ言語活動としてとらえる。・・・コーヒーミルを買うという消費活動の場合、その対象である器具の豆を挽く機能という記号内容(シニフィエ)は、器具のデザインという記号表現(シニフィアン)と一体であるとはいえ、「恣意的」なものだ。

現代社会では、「機能からのモノの解放」が実現する。モノ自体が解放されるのではなく、モノが機能を演じるという制約から解放されのであり、そのことをつうじて、人びとの日常生活が、儀礼や作法など「生活環境を、物象化された人間的構造の不透明な鏡にしていたあらゆるイデオロギーから引き離される。・・・モノそのもののネットワークが主体=人間からある意味で自立した社会関係を提案して実現させることを、現代社会の最大の特徴とみなす。あらゆる商品は、主体と客体の関係を反転させる。

消費が、自然の、あるいは心理的・社会的欲求を満たすために、生産されたモノを手に入れて、使用(吸収)することだとすれば、それは生産と欲求に従属した行為である。ところが、歴史をさかのぼってみれば、この種の消費とは異質な消費が存在していたことがわかる。「プリミティブな(原始=「未開」)社会の「祭り」、封建領主の大判振る舞い、そして十九世紀のブルジョワジーの贅沢」など経済原則を逸脱した消費は、ヴァーチャルな豊かさのイメージであり、その幻想的なメッセージとなった。

消費は、それらすべてのシニフィアンの実質の組織化によって定義される。消費とはあらゆるモノとメッセージが、いま、ここから、多少なりとも一貫性のある言説として構成されて成立するヴァーチャルな全体性のことである。

「物の体系」がモノそのもののシステムではなく、「記号化されたモノ」のシステムである。現実そのものではなくて、(観念的な)差異の関係のなかで記号化されるモノのシステムがヴァーチャル性を帯びていく。このような状況は、消費には限界がないことを暗示している。生理的な飢えや渇きはモノで満たせても、差異への渇望は、つまり自分以外の同類に差をつけることへの渇望はモノ自体では満たされない。このとき、無限の豊かさのなかで果てしない欠如感につきまとわれることになる。


1970 『消費社会の神話と構造』

生産と消費、需要と供給などの、いわば古典的な社会=経済的関係のなかで人間によって管理されていたはずのモノが、いつのまにか人間の意思から離れた「異物」としてわれわれを取り囲み、コントロールさえするようになったという主体と客体の逆転現象。モノたちのほうが人間生活を支配するようになるのだ。逆転とは、モノが機能から解放される一方で、人間のほうが、かつてモノに強いられていた機能を引き受けさせられているという事態を指している。

人びとはけっしてモノ自体を(その使用価値において)消費するのではない。観念的準拠としてとらえた自己の集団への所属を示すために、あるいはより高い地位の集団をめざしてじこの集団から抜け出すために、人々は自分を他者と区別する記号としてモノを操作している。

消費とは個人の意識を越えたところに存在する差異のコードへの「たえまない登録」の過程であり、「消費は自分で望みかつ選んだつもりで、他人に差をつける行動をするが、この行動が差異化の強制やある種のコードへの服従だとは思っていない」のである。消費社会を生きる人びとは無自覚のうちに差異のコードのシステムに組み込まれてゆくのである。

消費社会が「消費の仕方を学習する社会、消費について社会的訓練をする社会」である。人々はまず、毎日一定時間向上で集団的に働く産業労働力として社会されてから、今度は幸福の追求という強制命令を実行する消費力として社会化され、コントロールされることになる。この場合、社会化とは、消費の強制を自由意志による選択と思いこませる社会システムの強力な作用を意味している。

この段階で重要な役割を果たすのがメディアと広告である。消費社会の消費者たちはそれぞれ「個性的」に装っているかに見える。しかし、彼らの「個性」とは、広告メディアが提供する記号化されたモノのリストから選ばれた「個性」にすぎない。


1970 『象徴交換と死』

蓄積と生産の弁証法的関係」、つまり、蓄積が生産を増大させ、生産が蓄積をさらに増大させることで社会が発展するという関係が質的な変化をとげて、モノと情報の消費が社会の前面に出てくることになると、安定した二項対立に代わって、あらゆる領域での全面的な不確実性がゲームの規則となる。等価交換の商品的価値法則に代わって、差異のコードにもとづく構造的価値法則が支配し、商品段階の生産と労働はいっさいの合目的性を失ってしまう。

塚原史ボードリヤールという生きかた」

ここで示されるのは、現代において消費が「記号化されたモノ」のシステムとして、構造化されていく姿である。そしてこのようなシステムを駆動させているのは、「欲望(無への欲望)」である。欲望は主体を消費システムに拘束する。自分以外の同類に差をつけることへの渇望、差異のコードへの「たえまない登録」の過程である。




「生き生きしたもの」と消費


仲正昌樹「日常・共同体・アイロニーの中で「ポスト全共闘といわれる世代になると、直接的には「主体を立てる」ような考え方をしなくなってくる。主体のことを考えていると、自己矛盾に陥るとか、主体などウザいと思うようになります。そのかわりに何を求めはじめたかかというと、「生き生きとしたもの」を求めるようになりました。」と指摘した。そしてこのような「生き生きしたもの」サブカルチャーに求めるようになっていると、指摘したが、「生き生きしたもの」とは、欲望される消費品であり、まさにボードリヤール「記号化されたモノ」のシステムとしての消費だろう。

仲正が出す例として、ブルセラ、援交、そして芥川賞をとったふたりの作家(綿矢りさ、金城ひとみ)などへの欲望はまさに消費欲である。「生き生きしたもの」とは、現代の物神性を内在した商品である。そしてそれらが消費であるのは、自己が消費する側であり、対象が商品であり、消費される側という権力構造がある。処女、ロリ、「女子高生」、アイドル、そしてブルセラ、援交などは、女性そのものではなく、消費されるべき存在する商品化(記号化)された「女性」であるということだ。

「二次的裸体」が剥き出しのヌードよりもエロティックな効果を持つのは、(女性の)肉体の記号化をつうじて、フェティシズムナルシシズムの倒錯的過程が始動するからである。エロティックな意味をもつこの種の用具が「すべて奴隷(鎖、首輪、鞭など)や未開人(黒人趣味、日焼けした肌、裸体、刺青)のものにほからない」という事実は、肉体の記号化が、じつは差異を差別に読みかえることで、消費社会の社会管理のプロセスとして信仰していることを暗示している。

塚原史ボードリヤールという生きかた」




カオスの辺縁での主体システムと消費


このような言語システムという広い意味での「消費」は、ボクが「カオスの辺縁」として示した主体システムだろう。

精神分析的主体のオートポイエーシス(大光寺耕平)では、ラカン的な主体をルーマンオートポイエーシスシステムとして、再考している。そしてここでは、人間の<語る主体>と<動物的存在>という2つの側面を、構造的にカップリングとして捉え、ラカンの主体は<語る主体>の側から見ていると考える。ここで<語る主体>と<動物的存在>は、象徴界現実界と考えられ、その境界が対象aである。

システムの作動としては、象徴界において、<動物的存在>が対象aを通して、<語る主体>にとって処理しきれない偶然性をさしだす。象徴界に取り込まれる形式S1→S2で、隠喩的な新たな結合によって、自己準拠の脱トートロジー化を可能とし、象徴界の回路も組み替えられ、症候の再産出に結びつき、主体システムが作動する、と考えられる。

まさに、ボクがいうところの、象徴界は、一つの自己組織的なシステムであり、その「カオスの辺縁」対象a象徴界は構造化され続けるに近いといえる。

[お勉強]精神分析的主体のオートポイエーシス大光寺耕平(2001)http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050217

ここで示す主体システムにおいて、消費とは、欲望する対象に対する言葉に回収されない「偶然性(社会の未規定性)」を、隠喩的な結合によって、象徴界の回路へと回収し、象徴界自体を組み替えていくことである。

このために、ボードリヤールのいうように「消費社会を生きる人びとは無自覚のうちに差異のコードのシステム(象徴界)に組み込まれてゆく。」と同時に、対象を欲望することによって、差異のコードを書き換えていく。そしてこのような消費は、主体が主体であり続けるために、終わりがない過程である。




閉塞した国、日本


しかし現代において、「無限のメタゲーム」によって、このような「組み込み」は、高度にそして複雑にマニュアル化される。もはや、どのような言説も、商品も経験された反復であり、循環であり、言語に回収されない「偶然性」を見いだせない。このために「差異化の強制やある種のコードへの服従としての閉塞感が強まる。すなわちどのような欲望もマニュアル化によって迅速に満たされるために、欲望し続けることが困難になる。

たとえば、最近の日本のモラルが低下しているようなことが言われることがあるが、たとえばかつての日本に近い例として高度成長期にある最近の中国を見てみるとどうだろうか。中国は日本よりもモラルが高いだろうか。教育の普及などもあり、日本に比べれば、社会的な秩序はまだまだ低い。社会のモラルの未分化であり、日常の中に多くのモラル的な不条理がある。

それに比べると、日本は教育が普及し、社会的なモラルが広がり、さらには情報の発達によって、そのモラル自体が様々に疑われる状態にある。「無限のメタゲーム」が固定されたモラルを解体するように働き、その解体する言説もまた繰り返されたもの(反復)でしかない。それは、社会に内在する「偶然性」が次々と消費されて、構造化されることであり、たとえば「なにをすることも自由である」ということも、反復でしかなく、構造化される。「消費社会を生きる人びとは無自覚のうちに差異のコードのシステムに組み込まれてゆく」のであり、閉塞されたものとなる。

このような高度に発達した社会の、卑近な例としては、JR福知山線脱線事故が、海外で報道されたときに、1分のずれを管理する日本の鉄道の過剰さについて報道されていた。ボクたちはそれを当たり前と考えている。さらに海外に比べると、携帯電話のモラルに関する過剰性があげられる。

携帯電話では、電車外の人は電車内の空気感を読めないので、込み入った話をする。電車内の会話者は、それに答えてしまう。それを「聞かされる」人は、特に聞きたくないのに、聞かされてしまう。そこには強制力が生まれるとともに、話がわからないという疎外感を「味あわ」されてしまう。言葉には、人を引きつける強い吸引力があるのだ。ボク風に言えば、「人は世界を他者の痕跡として認識する。言語は特に強い他者の痕跡である故に、強く引きつけられずにはおれない。」ということになる。・・・電車内は儀礼的無関心の場として、コミュニティの力が働いている。人々は互いに、無関心という秩序を壊さないよう保とうとしている。それを強制的に関心を持たせるような力に、人は不快感を感じる。

しかし、海外では必ずしも電車内の携帯の使用を禁止していないようである。そのような意味では、個人的には、日本は少し神経質なような気はする。このような儀礼的無関心の高い秩序性は、社会全体を息苦しいものにしているのも確かである。

なぜ電車内で携帯電話を使うといけないのだろう。 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20040630

このような閉塞感は、高度に複雑化した社会の宿命的な閉塞感だろう。社会に内在する偶然性は次々消費され、マニュアル化ていく。便利だが、息苦しい社会という意識も広がる。




テレビのハプニング化

しかし主体が主体である、主体システムを作動させ続けるためには、「偶然性」(社会の未規定性)を消費しつづける、すなわち欲望しつづける必要がある。現代の高度に構造化された世界では、なおさらに「偶然性」は貴重であり、そして高度に構造化された世界では、「偶然性」はもはや、現実界へ近接」したところにしか見いだせない傾向にある。「偶然性」とは、予測できない「不確実性」であり、そして現代の「生き生きしたもの」への過剰な欲望とは、現実界へ近接」したところの不確実性への欲望である。

たとえば、近年のテレビでは完成した芸よりも素人的なものが求められる傾向にある。完成された芸とは反復であるからだ。一度見ると、次になにをするか分かってしまう。消費されてしまう。素人的なものは、毎回、何をするかわらないハプニングがある、ように見える。それが、「ように見える」のは、それはまったくの不確実性ではないからだ。素人芸の芸人は、素人ではない。もし素人だとあまりに不確実すぎて、消費することが困難である。

たとえば現代のブームの構造を見ればわかりやすいだろ。だれもやっていないものには価値はないし、だれもがやっていることにも価値はない。だれかがやり始めているようだという、ブームの兆しに乗ることが良いのである。まだ不確実性が残っているような少ない反復で、反復することが適度な「生き生きとしたもの」なのである。

そして不確実性は主体システムによって消費され、構造化され、さらに不確実性は求められる。テレビ番組の歴史は、このような現実界への近接」へと向かっている。大澤真幸は、「現実の日常生活そのものをひとつのショウとして映し出すリアリティ・ショウ、リアリティ・ソープと呼ばれるTV番組の登場」を上げている。日本では、電波少年に始まり、「あいのり」などである。北田暁大「感動の全体主義とよぶ。そこにやらせがあるか、ないかではなく、確実により高いハプニング性を求める、みなで感染する傾向である。




消費という祭り


このように、現代の「生き生きしたもの」は、不確実性であり、ハプニング性であり、「祭り」である。「祭り」は反復であるが、人々が集まるという熱狂が、何かが起こるのではないという、ハプニングであり、不確実なものへの期待が生まれ、熱狂する。高度にマニュアル化された社会であるからこそ、主体が主体であり続け、欲望しつづけるために、「祭り」は重要な位置を占めている。

渋谷などの街であり、2ちゃんねるであり、ディズニーランドであり、マクドナルドであり、イベントという「祭り」の不確実性は欲望される。それはまさに人々が集まるところであり、人々が集まっているように演出された商品である。たとえば夜中コンビニに前でたむろする青少年たちでさえも、部屋で一人でいるよりも、そこにみんなといれば何かが起こるのではないかという不確実性による「小さな祭り」を享受しているのである。

さらにこのような「祭り」性は現代の消費には欠かすことができない。現代の商品に付加される価値は、「生き生きとしたもの」という演出である。コマーシャルなどによって、みんなが欲望しているという小さな熱狂を演出し、「生き生きとしたもの」であるように振る舞うし、商品のデザイン(シニフィアン)は中身(シニフィエ)よりも重要視されるが、そこに芸術性という創造性が付加され、「生き生きとしたもの」として演出される。人々が商品を各意味は、そのような祭りに参加するためである。

さらに、仲正が出す例として、ブルセラ、援交、そして芥川賞をとったふたりの作家(綿矢りさ、金城ひとみ)などが「生き生きしたもの」であるのは、商品としての「女性」が素人化することによって、ハプニング性が増しているのである。

たとえば、一般的な売春と援交の違いは、売春はシステム化され、売春する女性もルーチンとしてこなす反復であり、売春する側もそこに偶然性が見いだしにくい。それに対して、援交は相手が高校生という素人であり、システム化されていない、援交する女性もそのようなことになれていない、だろうという不確実性がある。そこに「祭り性」が内在されているということである。

さらに、このような「生き生きしたもの」は、「癒し」として働く。すなわち健全に欲望を生むものとして現れる。癒しの対象とは、メタのない存在である。幼児、ペット、アイドルにはメタがない、あるいはメタの深度が低い。メタがない故になにをするか予測しにくい。それが素人であり故に、「生き生きしたもの」である。そして「生き生きしたもの」との接触は、主体の取り戻しとして、癒されるのである。




サブカルチャーという汚物性


芸術とは、そもそもにおいて、一回性というような、偶然性であり、不確実性を表象するものである。しかし従来のカルチャーが構造化され、パターン化し、反復でしかなくなっていく中で、サブカルチャーは登場する。従来のプロによる文化から、素人によるカルチャーということであり、それによって、再度カルチャーに素人な不確実性を内在させるということである。

たとえばロックミージックの魅力は、現代において産業として確立されつつあるなかで、そこにたえず未熟な素人が参入し、「生き生きしたもの」が注入されつづけるところにある。そしてこのようなサブカルチャーの特徴として、一般的には「不快なもの」(ボクの言う「汚物性」)として現れる特徴をもつ。たとえば、ロックミージックの登場当初「騒音でしかない。」と非難された。このような「不快さ」(汚物性)こそが、従来の一般的な反復からの逸脱であり、過剰さである。

たとえばオタクの「萌え」も、プロ産業によって作られた欲望ではなく、素人による作られた「生き生きしたもの」への欲望であり、そこに気持ち悪い「不快さ」がある。さらには、サブカルチャーといえないかもしれないが、女子高生の「ルーズソックス」「ミニスカート」「ガングロメイク」なども、同じような流れである。素人によるファッションである。そこに一般的な意味での「不快さ」が内在する。それ故に「生き生きとしたもの」としての記号なのである。




ホリエモンという「生き生きしたもの」


このような「生き生きしたもの」への過剰な欲望の最近の例は、ライブドア問題への熱狂だろう。みなが熱狂したのは日々驚きと共に変化する、この出来事のハプニング性であり、不確実さである。よくわからない高額な金額のやりとり、乗っ取りというのスリル、先の見えない展開。さらに想定の範囲内という非「不確実性」の呪文が逆説的に不確実性への欲望を煽ったのではないだろうか。さらにはプロ野球参入問題に続いて、TV業界という保守的な、そして構造化された組織の解体という、閉塞した社会への反動という象徴的な存在としての意味もあるだろう。

そして、このような不確実性を消費していく過程とは、過熱したニュース報道での、ホリエモンへの誹謗中傷や、様々な過剰な憶測、デマなどのように、隠喩的なシニフィアンの連鎖により神話が産みだされていく。
そして「お金でなんでも買えると思うな」「ジャーナリズムがわかっていない」などの過剰なズレた意見は、まさに「生き生きしたもの」「不快さ(汚物性)」への批判である。

このような傾向は、イラク人質バッシングにも見られた。とらえられた人質がどうなるのか、というハプニング性、テロリストという他者はまさに予測できない不確実な存在である。この事件は、不確実性であり、恐怖をともなった「生き生きしたもの」として日本人の前に現れたのである。その消費過程として、バッシングは行われたのである。




2ちゃんねる化する社会


現代では、このような傾向は、2ちゃんねるなどのネットがそれを加速させる。そしてライブドア問題であり、イラク人質バッシングなどは、一挙に熱狂し、消費され、忘れ去られてしまう。「生き生きしたもの」として欲望したが、そこがなにか知見を残したのか、この事件の意味とはなんであったのかという意味は省みられることなく、次の「生き生きしたもの」へ欲望は向かうのである。

このような2ちゃんねるのような「無限のメタゲーム」の意味は、反復からの逸脱し、興奮し、不確実性を高め、みなで場を盛り上げ、熱狂し、主体を取り戻そうとする行為である。他者を興奮させ、コミュニケーション場を過熱することによって、不確実性、ハプニング性を高めようとするこのために「無限のメタゲーム」の会話内容に意味があるか、ないかは、意味がないのであり、メタゲームの中から立ち上がる興奮そのものが「生き生きとしたもの」であり、消費するのである。このような傾向は、大澤真幸のいう「アイロニカルな没入」であり、北田暁大のいう2ちゃんねる化する社会」というものだろう。




中国人=「人間」、日本人=「動物」


たとえば、中国人が生き生きしているのは、社会が未分化であり、不条理、不確実性、偶然性が多少に含まれているからであり、主体システムは円滑に作動し、欲望が行われるためである。社会の未分化故に、生き生きとせざるおえない、といえる。たとえば、「野性の動物」における緊張感のようなものかもしれない。なにが起こるか分からない世界に生きているのであり、その緊張感が生き生きとさせるのである。

それに対して、日本の社会は、大きな物語が凋落し、多様な小さな物語の世界である。なにが正しいというようなことは不明確で、価値は多様化し、流動化している。その意味で象徴界は流動化しているといえる。

しかしその反面、「無限のメタゲーム」はすべてを循環反復の世界へ変えてしまう。「価値が多様だ」「絶対的な正しさなどない」という言説が、すでに繰り返された反復でしかない。すべてが構造化され、マニュアル化され、循環の中に埋もれてしまう。そのような意味で象徴界はより高度に構造化されたものとなっているのである。

このような意味で中国社会が「野性」ならば、日本の社会は、「動物園」のようなものである。高度に構造化された社会は、安心で暮らせる。しかし生の充実が得られず、閉塞する。このような「動物園の閉塞感」は、コジェーブ、あるいは東浩紀のいう「歴史がおわり」、もはや「動物」のように欲求を充足しながら生きていくしかない、ということに対応する。中国人は、まだ「人間」であり、日本人は動物化している、ということだ。




「先が見えない」ということが見えてしまう時代


最近日本では、安定していた大企業がリストラする、倒産するなど、「不確実な時代」である、というようなことが言われるが、中国の「本当の」不確実性とは違う。日本では、「大企業がリストラする、倒産する」ことさえも、「無限のメタゲーム」の中に消費されてしまう。リストラされ、倒産されたあとにこの閉塞した国では、再チャレンジするという可能性(不確実性)が失われている。一度失敗したものの行く道は決まっている、ような閉塞感がある、ということではないだろうか。だから日本において、不確実で先が見えない不安ということの本質は、失敗したときまでマニュアル化されているため閉塞した不安感なわけである。

たとえば、フリーター、ニートの増加は、不景気による就職難だけではないだろう。彼らの多くは定職につくことを避けているのである。現在の日本で、定職につくことは、構造化された世界への帰属であり、死ぬまで「見えてしまう」ように思える。すなわち不確実性が消失するのである。 フリーターであり、ニートいいることは、人生を不確実なままにして、何かが起こるかもしれないということによって、「生き生きする」だろうということなのである。




ジェットコースターという「疑似不確実性」


しかし、東浩紀のいうように「まったり」「動物」として生きていくことに耐えられなくなっている。このような状態に、閉塞感を感じ、「人間」であろうとする揺り戻しが起こっている。それは、不確実性を欲望することによって、主体の取り戻しそうとすることが起こっているのであり、そのためにこのような閉塞した社会で自ら、不確実性を作り出さなければならないのである。

たとえばジェットコースターという乗り物は、安心して暮らせるように社会から排除した恐怖を、自ら作り出し、生の緊張感を味わうのである。それは本当の恐怖ではない。それは管理された恐怖である。この作られた不確実性が、まさに現代の「生き生きしたもの」である。そしてそれによって、私が私であることを確認するのである。




人間回帰という野蛮


このような閉塞した社会で、いかに「生き生きしたもの」を見いだすのか。それは、一般的には過剰と思われるような、不快、痛み、、暴力という、あえて、象徴化し排除してきた現実界へ、再度接近するように行われる。それは大澤真幸がいう「現実からの逃避」から「現実への逃避」への転倒である。より現実界への接近による「生き生きしたもの」を共有したところの、消費という祭りであり、ハプニングとしての素人カルチャーであり、過剰なコミュニケーションによる熱狂に求められる。

このような傾向は、近代的な理性主体の観点に立てば、刹那的で、野蛮であるように見えるかもしれない。だからといってボクたちが単に野蛮化しているわけではない。ボクたちは、人類史上でも過剰にモラルで、過剰に規律管理された人々である。この日常と非日常の二重性は、アイロニカルな距離を保ちながらも、毎日のように非日常の中で、野蛮は暴走し、発散するのである。「人間」であり続けるために。