心たちはなぜ蜂の巣状化するのか?

pikarrr2005-05-11


マニュアル化された不自由


たとえばどこか世界へ旅行したいと思う。旅行の楽しみは、日常からの離脱である。繰り返される日常から抜け出し、新たな体験をすることによって、刺激を受けて、リフレッシュするというようなことである。そのために行く場所の地図を見る、そしてガイドブックを調べる。そこには世界のあらゆるところの情報が示されている。どのような楽しみがあり、どのように楽しむべきか、すなわちマニュアル化である。それをもとにプランを立てるのである。

このようなことはある種の転倒を起こす。マニュアルを繰り返すことそのものが楽しみとなる。楽しみとはこのようなことだと書かれていることが、正しい楽しみ方となり、正しい楽しみ方をすることが目的化する。このようなマニュアルの正当性は、男女交際にも見られる。雑誌などに、デートスポットが掲載され、楽しみ方が示される。さらにはドラマや小説などで、デートのパターンが示される。このようなマニュアル化されたデータが目的化されて、それを完結し得たことに喜びをおぼえる。デートスポットに行き、おしゃれなレストランで食事をし、ブランド品をプレゼントするという「正しい交際」を行うことが目的化される。

すなわちこの情報化社会で行われている「無限のメタゲーム」は、無限に様々なデートを生み出す、すなわち無限の意味を作り出す発散過程ではなく、そのほどんとが反復であり、あるマニュアル化されたデートを生み出す収束過程である、ということだ。メタのメタの・・・であろうとすることが、結局、ベタの反復でしかないというということである。




隠される不自由

このような消費社会の根底にあるのは、科学技術の発展であり、社会の機能合理化がある。そしてこのような機能合理化が進めるのは、溢れる商品という物質的な豊かさだけではない。ボードリヤールが行ったようにそもそも消費とは言語であり、情報である。情報化は、人間工学の発展、環境管理権力へと展開される。すなわちなにが満たされてるかわからない、無意識、生理へ働きかける満足を与えるのである。すなわちボクたちは所詮、マニュアル化されたことを反復しているだけだ、ということを意識させないように、満足を与えるように努力されるのである。このような傾向はボードリヤール「消費が「記号化されたモノ」のシステム」として、構造化されていく姿である。




「寛容」という距離


豊かさ、満足への誘導は、さらなる満足を求める。そこでは欲望は肥大していく。ラカン的には言えば、「父親の審級」による去勢が行われず、幼児的全能感から抜け出せず、高い「プライド」、低い「自己信頼」をもつようになる(宮台)」しかし欲望はどこまでも肥大することはできない。なぜなら、みなの欲望の衝突が起こるからである。

このために社会性は、「寛容」という距離によって構造化される。すなわち、他者と適度の距離をとる儀礼である。現代の社会には他者の領域にむやみに干渉しないという暗黙の了解があちこちにある。それは他人だけでなく、家族内でも存在する。


すなわちこのような「寛容」という距離は、豊かさが支えているのである。そのために、ファーストフード、コンビニなど他者の関わらない消費形態、TVやサブカルなどへの情報商品への埋没、携帯電話、メール、ネットなどの他者が現前化しないコミュニケーションが求められるのである。




「高速、多様」な欲望の承認


たとえば、性的欲求を満たすために風俗へ行く。このような消費は、「他者」と現前化することを必要としない。風俗嬢は商品であり、他者ではない。さらに風俗へ行くことは、単に「抜いて」すっきりすることではない。風俗へいく、かわいい風俗嬢にサービスされるという行為が、「他者」に欲望される行為である。風俗へいき、かわいい風俗嬢にサービスされたということが、「差異のコードへの「登録」の過程」なのである。「消費とは個人の意識を越えたところに存在する差異のコードへの「たえまない登録」の過程である。(ボードリヤール)」

対象を消費するとは、消費の先にいるだろう「他者」がその対象を欲望しているだろう対象を消費するという、「他者」に欲望されることであり、「他者」に承認されることである。すなわち消費とは、「寛容」という距離を保ったままに、他者から承認され、主体として登録されることができる満足である。

さらに、風俗嬢という疑似的恋人は、今日はその彼女であったが、明日はもっとかわいい、あるいはもっとテクニックのある別の彼女であっても良いというように、容易に代替可能となる。消費による「登録」は、「高速に、多様に」代替可能である。

現代においては、このような「高速、多様な登録」は重要である。現代の情報化社会では、一つの価値に固執することは困難であり、コンテクストによって、価値観は次々に移り変わっていく。たとえば、「実生活」では倫理的に、2ちゃんねるでは過激に、「ブログ」ではよりアイロニカルに、というように多重な主体像として振る舞うことが求められる。それはうまい世渡り述というような使い分けではなく、現代を生きるため求められる、「消費が「記号化されたモノ」のシステム」の中で無意識な自己の多重性である。

すなわち消費社会によって、肥大する欲望は、消費によって「寛容」という距離を保ち「他者」との現前化を逃れ、多様に主体を登録することができる。




寛容という不寛容


しかしこの自由度こそが、欠乏感を生むのである。それは風俗嬢という疑似的恋人の入れ替え容易性は、反転して、自己の「登録」の容易性をしめす。すなわちいくらかわいい子にサービスされ、他者にうらやましがられようと、金さえ払えば、その子は他の誰かを承認するのである。消費による「登録」「高速、多様な」代替の容易性が、主体を散乱させるのである。

さらにこのような代替可能性を支える「寛容という距離」は、ひっくり返せば、他者から疎外でもある。「寛容とは不寛容の究極的な形(ジジェク)」である。それ故に、「寛容」は、個体を孤立させる。

充実感が不自由の上に根ざしているのは、そのためである。容易に到達的できない不自由によって、自分だけの登録が行われるときに欲望は一時的であれ、充足される。しかし消費社会は、欠乏感を抱いたまま、「寛容」という距離による「高速に、多様」「登録」へ向かっている。




ハニカムハーツ(蜂の巣状化する心たち)


かつてのボクは、このような状態を、語呂良くハニカムハーツ(蜂の巣状化する心たち)」と呼んだ。本来自由な選択で、各人個性的であるはずが、マクロ的には没個性化に向かう。そして「寛容」という距離によって閉鎖された「個室」の中で、消費という自分の趣向による登録によって、自己を維持し続ける。それはまるで心が一つづつの穴を形成する蜂の巣状(ハニカム)のような状態になる。これは物理的な「個室」を意味するのではなく、引きこもりという限定されたものではなく、現代人の全般的な傾向だろう。そしてこのようなハニカムハーツが、「孤独」と閉塞の中で、自己を保つために消費すべき、「生き生きしたもの」を求めて、さまようのである。 *1

ハニカムハーツ(蜂の巣状化する心たち)

・心の趣向化・・・趣向で形成された心は好きか嫌いという価値基準にもつ。

・心の個室化・・・趣向で仕切られた心は、ナイーブで、現前化する他者との密接なコミュニケーションを避ける。

・心の幼児化・・・他者(社会)との接触が少なく、趣向により形成された心は体内回帰のごとく幼児化し、高い「プライド」、低い「自己信頼」をもつ。

ボクですか・・・ハニカみハートです・・・