なぜレイザーラモン住谷は「生き生き」なのか?

pikarrr2005-05-12


「いさぎ悪さ」の全面化


現代は社会にかつてのような「潔さ(いさぎよさ)」がなくなっているのではないだろうか。たとえばあしたのジョーのような美学的な「潔さ」であり、メタレベルでは梶原一騎的とも言える。かつての週刊誌マンガには、一つの物語としての完結性をあった。だからどのようなヒットしたマンガも、いやヒットしたマンガだからこそ、人気あるうちでも「潔く」、終わりどきを見極めることが重要だった。それに比べて、現在の週刊誌マンガでは、続けることに重点が置かれ、終わり時、終わり方は必ずしも重要ではないように思われる。終わりとは、読者に飽きられるときである。

このような「いさぎ悪さ」は日本社会で全面化しているだろう。簡単には細く長く生きるという保守化である。「無限のメタゲーム」に生きているボクたちも、あしたのジョーのような「潔さ」には、感動はするが、美しいとうよりも、滑稽でしかない。また最近ではまさに韓流ドラマにみられるノスタルジーである。なぜなら、「美しく真っ白になったジョー」のその後が見えてしまうからである。知障になり、車椅子でよだれを垂れ流しながら、ヘラヘラ笑うジョーのような・・・

そしてヒットマンガを生み出し、作品としての完成度を求めて、「潔く」作品を終わらせたとしても、そのあとの自作がヒットするかどうかは怪しい。すでに多くの経験談から、落ちぶれる可能性はきわめて高いことが見えてしまっているのであり、落ちぶれている例を見てしまっているのである。そのために細く長く続けることが選ばれる。




「生き生きしたもの」消費の加速


「無限のメタゲーム」の中で、不確実性の低下し、マニュアル化され、先が見えすぎ、夢がみにくい社会とはそのようなものである。そしてこのような閉塞感故に、社会に「生き生きしたもの」を求めて、ジェットコースター化するのである。すなわち外部に過剰に「生き生きしたもの」を求めるのだ。

だから現在のマンガ家が、細く長く打算的であったとしても、単純に手を抜いているというようなことではない。物語の展開よりも、毎週毎週の「生き生きしたもの」が過剰に求められる。そして消費のサイクルが短くなり、物語の完成度を求める「潔さ」を求める余裕などなく、少しでも細く長くということで精一杯であるといえるだろう。




ギャグ消費型お笑いブーム


このようなことは、日本社会で全体に広い意味での「消費」として現れている。さらにTVタレントにおいて、さらに過酷かもしれない。いまはお笑いブームと言われているが、いままでのお笑いブームに比べて明らかに消費が早い。ゲッツや、波田陽区、ヒロシなど、今回のお笑いブームは「ギャグ消費型お笑いブーム」とでも言える。才能があるなしではなく、ギャグという瞬発的な笑いを引っさげて登場し、一時期受けて、消費される。芸人そのものは一発屋であっても、次々とギャグが消費されていくことによって、ブームは継続されている。




「生き生き」フゥ〜!


その中でも最近抜群に「生き生き」して見ているのが、ハードゲイこと、レイザーラモン住谷である。関西では結構アイロニカルにふるまっているとも聞くが、バク天でみせるハイテンションは、病的な躁、ある意味狂気な「メタ無し」っぷりである。このような「メタ無し」っぷりこそが、どこからあらわれ、なにを行い、なにを考えているか、不明である(ように見える)不確実性であり、まさに現代において、ボクたちが欲望する「生き生きしたもの」の理想型の一つである。

これは「潔さ」であってはならない。ボクたちが欲望する「生き生きしたもの」とは、「潔さ」というアイロニカルな美学はなく、それはただ突然現れ、突然去る、予測できない不確実性の輝きであるのだ。いまのレイザーラモン住谷にはそのような輝きがあり、それが「フゥ〜!」という叫びだけで、瞬発的に人々を引きつけたのである。*1


ボクですが・・・ほそ〜く、なが〜く、いさぎ悪く、しぶとく生きていきます、フゥ〜!!!