なぜ過剰に無垢(フロンティア)を欲望するのか?

pikarrr2005-05-23

欲望とは無垢(フロンティア)への欲望である


現代の問題は、自由すぎて選択に困る不自由なのか?無限の自由が選択をすでに絞り込んでしまっている退屈なのか?これをつなげると「無限の自由は不自由なので絞り込まれた選択にしたがってしまう退屈」となる。このような「自由であることが不自由である」ような閉塞のなかで、渇望されるのが「無垢」である。


欲望とは無垢(フロンティア)への欲望である。無垢への欲望とは、無垢を征服したい暴力であり、さらには競争である。「欲望とは他者の欲望であり」、他者よりも先に禁止を乗り越え、征服しなければ意味がない。「私がこの困難を乗り越え一番に到達した。この私が!みよ、皆のもの!」という「まなざしの快楽」である。このような無垢への欲望は、権力志向であるとともに、「ここに私がいる!」という実在の証明であり、「リアリティ」の獲得なのである。すなわち現代は生の実感としての「リアリティ」が欠乏している。



無垢とは、禁止の先にあるだろう幻想(ファンタジー)である


無垢は、社会的な禁止によって、その先に無垢があるような幻想(ファンタジー)として現れる。それは、「上から2冊目の本」であり、処女信仰である。しかし現代の「寛容」で多様な価値社会では、禁止の審級が作動しにくく、すなわち「自由であることが不自由であり」、無垢が欠乏している。それ故に禁止そのものを生み出すために、より暴力的で、過激な行為が行われる。


サブカル、ロックミュージック、ネット、ロリコン、女子高生、萌え画、レイザーラモン住谷「汚物」として現れる。現代の欲望の対象が汚物性=反社会的嫌悪を伴いやすいのはこのためであり、それが現代の「生き生きしたもの」である。2ちゃんねる「他者より禁止(の言葉)を、無垢な地(言葉)を」という過激な祭りが繰り返されるのも、「生き生きしたもの」への欲望をもとに作動しているのである。




現代におけて無垢は、科学的言説によって作られる


現代におけて科学的言説が、無垢という幻想(ファンタジー)を想起するものであるのは、次々進歩する科学が、新たな体験としての無垢への幻想を生み出すからである。映画にしろ、ゲームにしろ、ジェットコースターにしろ、ハリウッド的CGにしろ、科学技術は新たな無垢の体験を生み出す。


ハリウッド的なリアリティは、その質感ではなく、あたらな体験を生み出すことによってのみリアリティがあるのである。だからアニメであってもリアリティをもちえるのは、新たな体験を生み出しえるからである。空想的であっても、無垢な体験は「リアリティ」を生み、逆説的に、現実の反復された体験は、「リアリティ」が欠乏する。このために新たな無垢を生み出すための、暴力的で、過剰な「生き生きした」表現が行われる傾向がある。*1