なぜ「健全」な無垢への欲望に健全な精神は宿るのか?

pikarrr2005-05-24

複雑な世界からの逃避


例えば「化石燃料資源の有限/無限性と、資本による、それらの簒奪との関係において、前者の多寡/有限か∞かが問題である、という命題を措定することに価値があるか?この問題は一部企業が、世界のエネルギーリソースの採掘権、販売権等を寡占しようとしていることだろうか?」

ニュースは世界の果てまでも追いかけてわざわざ問題を拾ってきては、自慢げに披露する。「旦那、今日はこんな大問題を仕入れていきましたぜ。」そしてその筋の専門家が、あれこれ解説する。金正日は悪いヤツだなあ」「ブッシュはつぎはどんな悪巧みを考えているのか」でも、マスメディアの話はなにか話がうますぎる、単純化しているだけではないか、と思ったりする。

それに真面目に対応するなら、ボクたちは膨大な専門書を読まなければならない。そしてこの分散し多様な専門分野の前に挫折する。こういう複雑な状況はボクたちを混乱させる。このメタメタな世界ではどこまでいってもすでにそこには誰かいるのである。欝だ。つかれたから「生き生きした」萌え画像でもみて癒されよーう。あぼーん。これがボクがいう現代のベタ化された閉塞感から「生き生きしたもの」を求める構造だ。




先が見える不安


ニートが働かないのも、このベタ化された世界におけるフロンティア、不確実性の欠如ではないだろうか。確かにニートや引きこもりになると、将来が見えなくて不安だろう。しかしこれは、単に仕事が大変だ、ということとは違う。「いまが不安だからといって、就職したって、人生の先が見え見えでしょう。就職したら負け。単なる「ベタ」な反復人生に落ち込むだけだ。」というわけだ。ボクたちに根本的に欠乏しているのは先が本当に先が見えない可能性である。大変であっても、何かが起こるかもしれない、アメリカンドリームならぬ、ジャパニーズドリームであり、反復でない、誰も来たことがないまっさらな土地、夢と希望と不確実性。つらいかもしれないが、なにかが起こるかもしれないという期待である。

がんばって就職しても、現代の日本で、ニートや引きこもりから社会復帰しても、どれほどの可能性が、夢があるだろうか。将来への不安さえ、「ベタ」化しているということだろう。または、いまから就職して、結婚して、子供を育てて、年老いていく。これは、すでに父親、母親が行ったことの反復であり、「ベタ」でしかない。同じことを繰り返してもなあ、というわけだ。




ベタ化するポストモダン


ボクたち問題は、自由すぎて選択に困る不自由なのか?無限の自由が選択をすでに絞り込んでしまっている退屈なのか?これをつなげると「無限の自由は不自由なので絞り込まれた選択にしたがってしまう退屈」となる。

このような自由であることが不自由であるような閉塞のなかで、どこにもいかないまま「無限のメタゲーム」がつづく。このようななかで欲望されるのはメタのない単純さであり、無垢である。



無垢への欲望


欲望とは無垢(フロンティア)への欲望である。無垢への欲望とは、無垢を征服したい暴力であり、さらには競争である。「欲望とは他者の欲望であり」、他者よりも先に禁止を乗り越え、征服しなければ意味がない。「私がこの困難を乗り越え一番に到達した。この私が!みよ、皆のもの!」という「まなざしの快楽」である。

このような無垢への欲望は、象徴界が作動する他者との権力闘争であるとともに、現代の閉塞した社会においては、より簡潔に「ここに私がいる!」という実在の証明であり、「リアリティ」の獲得なのである。

無垢をメタメタに解体する快楽によって、生の充実的な「リアリティ」を獲得する。その意味で、無垢との接触は、メタメタの閉塞で疲れたボクたちを癒してくれる。また無垢の不確実性、予測不可能、ハプニングは、ボクたちの閉塞を「活性化」してくれる。




あぼーんする快楽


しかしさらには、状況は切迫しているようにも見える。無垢そのものの欠乏は、さらには過激な方向へ向かう。アイロニーを排除し、物語を排除し、より直接的な感性へのアクセスを目指す。このような感性へのダイブは、意図的にアイロニカルな自己を見失なわせ、感性という自己の中のより「無垢な世界」へとあぼーんする快楽」である。そのとき自分自身でもなにが起こるかわからない、小さなハプニングが生まれる。

女子高生やロリコンやペットへの欲望とは、彼らが無垢であるから、欲望される。ここには女子高校生、幼女、動物という無垢を、「生き生きしたもの」という幻想(ファンタジー)としてみる倒錯が作動している。ここでの倒錯を作動しているのは、ベタ化した社会の閉塞から欠乏する無垢への過剰な欲望である。そしてこのような無垢への欲望という刺激的な幻想は、あぼーんな快楽として「萌え〜!!!」へダイブする。

レイザーラモンの幻想はただただ僕達をあぼーんへと導いてくれることにある。それが反復されその無垢が消費されるまでであるが。このような無垢へ欲望を感性にまでダイブさせる幻想こそが、「生き生きしたもの」である。




あぼーんする快楽」への欲望


2ちゃんねる「他者より禁止(の言葉)を、無垢な地(言葉)を」という過激な発言が繰り返されるのも、あぼーんする快楽である。テレビで窃盗を告白するアイドル、フェラ写真を暴露されるアイドル、テロリストに人質にされる日本人、衝撃的な事件をより刺激的な幻想へと短絡させ、あぼーんして誹謗中傷を吐き、祭る。最近、捕まった日本人の人質はどうなったのだろう。みな、なぜあのときほどに、もう「祭」られないんだろう。それは、反復であり、すでにメタメタに破壊され、幻想を生まないからである。

このような幻想は、2ちゃんねるにおいて特別なものではなく、マスメディアの言説においては、人々の欲望を引きつけるために、事実を過剰に単純化し、「生き生きしたもの」としてあぼーんする快楽を想起する。たとえばハリウッド的なリアリティは、あぼーんするための道具として、より無垢な、新しくより強烈な刺激を与えるよう努力されている。。

このようなあぼーんする快楽は、東浩紀動物化であり、「あぼーんする快楽」はあぼーんする(人間的な)欲望」によって、作動しているのである。

日常を覆う「空虚さ」の苦痛から逃れるべく、あえて解離にはまりこむこと。進んで解離し、制御不能な暴力の衝動に身を任せること。意味の動機で構成された日常の引力圏を脱出して、あたかも純粋な強度そのものであろうと欲すること。しかしこれ自体が、言ってみればロマン主義的な身振りですぎない。もちろんこの試みは失敗する。他者と出来事(同じことだが)の介入なくして、人はナルシシズムを越えられないのだ。しかし失敗は反復されるだろう。なぜなら失敗における失望と落胆こそが、いつか訪れる満足の幻想を輝かせ、嗜癖のシステムを回す当のものであるからだ。

斎藤環 「解離のポップ・スキル」ISBN:4326652888 「空虚さ」を越え「不安」のほうへ P274




「上から二冊目の本」には死体が埋まっている


「上から二冊目の本」には死体が埋まっているのである。女子高生には死体が埋まっているのであり、ロリータには死体が埋まっている。そしてレイザーラモン住谷には死体が埋まっているのであり、ディズニーランドには大量の死体が埋まっている。これら「生き生きした」幻想を作動しているのは、ベタ化した社会の閉塞から欠乏する無垢へのボクたちの過剰な欲望であり、あぼーんする快楽である。

桜の樹の下には屍体(したい)が埋まっている!これは信じていいことなんだよ。何故(なぜ)って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。

梶井基次郎 「桜の樹(き)の下には」 http://www.aozora.gr.jp/cards/000074/card427.html




「健全」な無垢への欲望に健全な精神は宿る


問題は、では無垢(フロンティア)はどこに現れ、ボクたちの「健全」な無垢への欲望を支えてくれるのか、である。音楽、芸能、アニメ、ゲーム、ネット…それはまた成長産業でもある。人々は無垢(フロンティア)をめざし、その欲望が向かうところに金が落ちるからである。

音楽はすでに産業として成熟している感はいなめない。今後も大きな産業でありつづけるだろうが、もはやかつてのような大物、すなわち無垢の開拓者があらわれないのは、ベタに反復化し、無垢が枯渇しているからである。芸能もアイドルはベタベタである。お笑いが新たなブームであるが、一発ネタ的なお笑い化はある意味、あぼーん化しており、末期な感じ、お笑いバブルな感じもする。

アニメ、ゲームはどうだろうか。萌え産業は一大産業となったが、東のいう「動物化」=あぼーん化は、ベタ反復しによって、無垢が欠乏する末期なのだろうか。ネットでは2ちゃんねるがベタ化する中、ブログが無垢を切り開き、欲望を吸収し続けている。今後もサイバースペースは開拓地でありつづけるだろう。科学技術も、ベタ化によって理系離れ、理系の非モテなど言われながら、ネット技術において、無垢が提供され、人々の欲望を支えてる。

このような「健全」な無垢への欲望が、「人間」として「健全性」を保つだろう。