なぜ人生の線路にのるのか?

pikarrr2005-05-26

主体という代謝システム


「(本当の)無垢」とは未分化、混沌(カオス)なわけだ。そしてこの世界はすべて、混沌なわけだ。ラカン的に現実界、カント的には物そのものだね。でも人は、それを秩序(言語)=象徴界あるものとして、認識している。それが、人間のいう「世界」の姿なわけ。主体とは、混沌を取り込み続けて(消費し)、秩序(言語)を書き換え続ける新陳代謝システムなわけ。




人生の線路にのるか、のらないか


現代は、変化が早く、価値が多様で、情報が混沌としているよね。情報を整理して、単純化して、反復としてとらえないと、混乱する。だから秩序が発達する。すべてにおいて、過剰にマニュアル化がされてるよね。だから世界を複雑に、混沌ととらえることもできれば、与えられたマニュアルにしたがって、秩序あるようにとらえることもできる。

「人生」を線路にのって、(マニュアルに従って)旅すれば、ある意味、安心だが、「無垢」がなく退屈だ。でも線路からはずれる(複雑にとらえる)と、とたんに混沌にまきこまれる、大変になる。すなわち現代は、価値が多様で、情報が混沌している故に、この極端な二択を迫られる、といえる。

でも、この線路にのるか、のらないかという選択は、自己選択のように書いたけど、自己を越えたところにあるんだよね。気がつくと、何らかの線路にのせられているわけ。ソシュール的な言語体系であり、ボードリヤール的消費社会であり、社会、政治システムなどのように、無意識のレベルから権力者の意図まで。




線路にのらないカッコ悪さ


60年代などは、「政治的反省の時代」というように、疑うことがカッコ良かったわけ。だけど、現代は、もはや疑うことは、カッコ良いことではないよね。それは、今がボクたちが馬鹿になったというよりも、価値多様な社会では、単純に疑うことがむずかしいからなんだよね。現代の情報化の発達のメタメタな世界では、もはや疑うことさえ複雑だから。権力に操られてる?権力に操られているように思いこまされてる?・・・「無限のメタメタゲーム」

すなわち、線路にのるか、のらずにメタメタな混沌落ち込むかという、極端な二重性があって、でも容易に疑うことはできない。底なしの混沌の落ち込んでいくから。だからなかなか線路ののらないことはできないよね。そしてのらないやつは、底なしの混沌がみえない単純な馬鹿で、カッコ悪いわけ。そして多くの人は、あえて深く疑わずに、線路にのるわけ。そのような選択はまた豊かな社会が支えてるわけだ。貧しく、飢えるようだと、だまって、線路にのってられないよね。

たとえば、最近、フリーター、引きこもり、ニートなどがあるけど、これらは、必ずしも線路にのっていないといえないよね。これらは社会的に認知され、それらを選ぶ人も、一つの選択肢となり(マニュアル化され)、選んでいる面があるから。たとえば、定職につかないからたまたま「フリーター」と呼ばれるわけではなく、「フリーター」という選択肢があり、選ぶ、ということ。




線路にのりながら、無垢を欲望する方法


機嫌良く、線路にのり「まったり」行くことができればよいのだけど、困ったことに、人は、線路に乗り続ける退屈に耐えられないんだよね。混沌の欠乏が、生きる実感が不足させるわけ。困ったことに、安定すると刺激を求めてしまうものなんだね。でも、かといって、線路を疑い、底なしに混沌の落ち込んでいくのか。それはできない。

そこで、「女子高生」「ロリータ」などなど、「生き生きしたもの」を求めるわけだ。「生き生きしたもの」とは、「無垢(混沌)への欲望」だから、ある意味では線路から降りるようなことなわけだけど、線路を疑うことではなく、線路に乗りながら、疑うことを排除したあぼーんする快楽」なのだ。より直接的な感性へのアクセスして、感性という疑うことができないところに、無垢(混沌)を求めるわけだ。

ここでは、「無垢(混沌)への欲望」の過剰さが「生き生きしたもの」という幻想(ファンタジー)を生むわけ。たとえば大人ならば、社会性をもち、状況によって行動が決まってくるけど、女子高校生、幼児、動物は、まだ社会性が未分化で、なにをするかわからない無垢さがあるよね。このような無垢さを、「女子高生」「ロリータ」「ペット」などというように、デフォルメした幻想(ファンタジー)によって「生き生きしたもの」として、あぼーんな快楽」として「萌え〜!!!」へダイブするわけ。すなわち、線路にはのりながら、「生き生きしたもの」を欲望し、刺激を求める、混沌を取り込もうとしているわけ。




ハプニングの快楽


テレビのバラエティ化も、「生き生きしたもの」を求める傾向だよね。できすぎた番組よりも、ハプニングなものを求めるわけ。ちょっと前の電波少年、最近では「あいのり」は、台本がない(ことになっている)ために、なにが起こるかわからないという、混沌を作り出して、視聴者は、そのハプニング性にただただ(あぼーんして)感動したりする。レイザーラモン住谷の人気は、その極限じゃないかな。あの姿、あの踊り、フゥ〜という奇声、なにもの?なにをするかわからないというハプニング性。ハプニングは飽きちゃうから、長く登場はできないわけだね。

2ちゃんねるの祭りや、誹謗中傷などは、まさに(社会的には)線路にのりながら、(2ちゃんねるで)ハプニングな刺激をもとめる典型だよね。

でも、最近は、お祭り騒ぎの度が過ぎて、イラク人質バッシングなど社会的に波紋を読んだり、さらには「生き生きしたもの」を求めるあまり、幼児殺人や監禁事件など、反社会的行動にでて、線路から転落してしまうヤツも出てくるわけだよね。まあ、ここまで行くのは少数派で、多くはなんとかかんとか、あぼーんする快楽」を挟みながら、線路にのり続けているわけだけど。




秩序と混沌(無垢)の「健全な」バランス


ボクは「健全な無垢への欲望に健全な精神は宿る」、といったわけだけど、健全とは、このような秩序と混沌(無垢)のバランスのことなんだね。この適度なバランスで欲望することが、主体システムを健全に維持する方法であるということ。

ハプニングも良いが、無垢が欠乏する中で、オタクのクリエイティブ性は、「あぼーんする快楽」をクリエイティブに転換し、細部に無垢を再生産する「健全」な方法の一つであると思っている。まあ、それでもこのバランスを保てないのが人間という「症侯」なわけだけどね。