「プロフェッショナル」はなぜカッコいいのか? 映画「交渉人 真下正義」 

pikarrr2005-05-30

交渉人 真下正義という生き生き


映画踊る大捜査線シリーズ最新作の交渉人 真下正義http://www.odoru-legend.com/)を見てきました。なかなか良くできていて、ハラハラドキドキおもしろかったです。劇場は満員で、観客の年齢層も広い。しかし「踊る捜査線」シリーズが、なぜにこれほど受け入れられるのか、と考えたときに、そこには、一つの「生き生きとした」主体像が描かれているからではないでしょうか。




普通の人々の物語


今回の交渉人真下正義」において、犯人が単独のオタクであるということに、多くの人が大きな違和感を持ったのではないでしょうか。これは今回だけではなく、いままでの「踊る捜査線」などにおいてもそうですが、事件の大きさに比べて、犯人像が弱すぎないか、というような違和感があります。オタクの単独犯がこのような事件を起こせるか?あるいはその姿が見えないということです。

このような大きな事件の犯人像として、典型的なものが、原理主義、反社会イデオロギーなどの反社会的な思想をもって、「強い主体」的犯人像が一般的にあります。それに対して、踊る大捜査線の犯人が、なぜいつも主体無きものたちなのか。なぜ、社会的に幼稚な愉快犯であり、オタクのような自己顕示欲の強いだけの脱社会的な「弱い主体」なのか。

このような犯人像を考えるときに、犯人たちが、反社会的なアンチヒーローでないように、主人公達が、社会的なヒーローではない。「社会的なヒーロー/反社会的なアンチヒーローという構造で描かれていない。主人公達はあくまで「普通の人々」だということです。

また踊る大捜査線において、主人公たちをめぐる構図として、重要なものが、官僚主義的な警察組織権力との関係性です。犯人よりもむしろ、組織の方が「強い主体」として描かれ、それによって、主人公達は組織の一部である「普通の人々」として描かれます。




「プロフェッショナル」への成長物語


これら「弱い」犯人と、「強い」組織との関係にある主人公達は、「普通の人々」である故に、「プロフェッショナル」です。踊る大捜査線でその象徴であり続けたのが、いかりや長介演じる和久刑事です。組織の末端で派手なことをするヒーローでもなく、刑事という仕事をコツコツとこなし、職業にプライドを持ち、組織でなく、社会正義を信じる。それは古い頑固な職人気質であり、「プロフェッショナル」です。

そして青島の「事件に大きいも小さいもない」「事件は会議室で起こっているんじゃない、現場で起こっているんだ」というのは、現場主義的な「プロフェッショナル」としての倫理観を表しています。踊る大捜査線とは、青島以下の「普通の」若手が、「プロフェッショナル」として成長していく物語です。

また今回の交渉人 真下正義の場合も、鉄道マンたちであり、線引き屋であり、木島刑事であり、頑固な「プロフェッショナル」がキーになります。「真下」は、オタク犯人に、名指しされ挑戦されることから、鉄道マンたちから「お前達の遊びに振り回されたく」いわれます。しかし事件が進むうちに、頑固な「プロフェッショナル」たちが、「真下」を仲間として認めていくのは、彼はオタクなどではなく、「プロフェッショナル」であったことを認められるからです。




オタク化する社会


ここで示されるのは、「プロフェッショナル」とは、ある分野にプライドを持ち、掘り下げているという意味で、オタク指向であるということです。その意味で、組織権力と差異化したところに、局部へ向かうオタク傾向があり、そして犯人の「悪い」オタクと、「真下」たちの「善い」オタクがいるのです。「悪い」オタクは、主人公達の「善い」オタクの裏面でもあるのです。

ポストモダ社会で、拡散する主体像は、「オタク化」という収束に向かっています。もはや大きな無垢が消失した社会では、無垢への欲望は、局部へ向かうしかありません。このような「オタク化」は、社会的に前面化している傾向であるといえるでしょう。

そして他者回避し、局部に向かうオタク化には、脱社会的な傾向が避けられません。だからいかに社会性を確保するか、孤独を回避するのかという問題は、現代人の誰もが持つ悩みではないでしょうか。




「プロフェッショナル」という現代の倫理


このような問題への解答として、踊る大捜査線には生き生きした「プロフェッショナル」な主体像がしめされています。「プロフェッショナル」とは、警察官僚のような会社人間とは違います。組織への忠誠よりも、自分の仕事にプライドを持ちます。また自分の分野に固執するオタク傾向ですが、犯人達のように自己満足に埋没することなく、社会正義を重視します。またかつての職人との異なるのは、仕事だけでは生きていけないことをしり、社会生活であり、家庭も大切にする「普通の人」です。閉じた組織内のまなざしよりも、より大きい社会的なまなざしに開かれているという、現代的な一つの倫理的な主体像として描かれています。

とかく価値発散し、なにが正しいのか、どうあるべきか、不明確なポストモダン社会で、「プロフェッショナル」は、若い人々にも共有される、現代の貴重な倫理観でしょう。

たとえばそのような主体像の典型が、「イチロー」であり、「中田ヒデ」です。彼らは技を極めという新境地(無垢)へ向かいます。その象徴が海外リーグという(日本人にとっての)無垢へ向かう姿なわけです。また彼らはスポーツ職人であり、ストイックですが、単なるスポーツ馬鹿ではなく、社会に開かれた視野をもっています。




愛すべきプロフェッショナルな人々


しかし「プロフェショナル」であるということは楽ではありません。日常の基本は、地味な反復の繰り返しです。また最近、元プロ野球選手が引退後に、野球しか知らないと社会に適用できずに、犯罪でつかまりましたが、現代のメタメタな世界では、一つの価値に固執することは、危険であり、怖いことです。そのために一人、地味に孤独さに絶え続ける強度が求められるのです。そしてこの強度に耐えられず、「悪い」オタクへの転倒は容易に起こりえるのです。

そのような孤独の中にいながら、笑っているという「プロフェッショナル」な倫理的な主体像である故に、踊る大捜査線の登場人物たちは「愛すべき人々」なのではないでしょうか。映画交渉人 真下正義には本当に幅広い客層が来ていました。主観でしょうが、他のはやりの映画よりも、オタクではない普通の人たちが、オタク顔で来ているように感じました。