なぜ私の中には二人の「他者」がいるのか?

pikarrr2005-06-20


現実界アプリオリ)の他者」としてのカントと象徴界(アポステリオリ)の他者」としてのラカン


カントは、経験論と合理論の融合において、「対象は認識によって産出される」というコペルニクス転回」を行った。そこから考えられた世界観が、

物そのもの・・・・人間が認識できない、いわば神の認識の世界
現象・・・・人間のアプリオリ(先天的)な感性と悟性の一致による客観的な世界
仮象・・・・各個人の誤解を含んだ世界

このカントの考えの重要な点は、客観的世界=現象を、経験の地平として確保したことである。すなわち、人間は、神でもなければ、動物でもないのであり、人間のアプリオリ(先天的な)能力が、人間のみが共有する客観世界を可能にしているのである。ここには、神と人間の差異であるとともに、人間と動物の差異がある。進化論前ではあったが、カントのこの差異は、「生物学的な同一種」ベイトソン「ゼロ学習」*1を含んでいる。

そしてこの考えは、ボクいう、「私の中には二人の「他者」がいる。」に繋がる。

現実界の他者」アプリオリ(先天的)な他者。生物学的同一種、遺伝子プログラムで共有される「他者」
象徴界の他者」…アポステリオリ(後天的)な他者。言語獲得によりインストールされる「他者」

なぜ「継続」こそが「正義」なのか? その3 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050617

これらを元にラカンに準拠し、世界観を以下に分類できる。

「外部現実界・・・ものそのもの、完全なる外部
「内部現実界・・・同一種により保障された現実界の他者」の世界。猿が見る世界より他人間がみる世界は限りなく私の見る世界に近いだろう。
現実・・・「内部現実界を経由した象徴界の他者」の世界。言語の世界。

これらの分類の大枠はカントと近いものであるといえる。対比してみると、以下のようになるだろう。

物そのもの「外部現実界
現象「内部現実界現実界の他者」の世界
仮象現実象徴界の他者」の世界



人間/動物の断絶的差異


ニーチェが神/人間/動物という差異に、進化論的(生物学的)な視点から、力への意志を導入し、神を葬り、人間も動物であるという地点に立ったのに対して、ニーチェ前のカントとニーチェ後のラカンでは、ともに「人間/動物の断絶的差異」が保持されている。

この差異はまったくの両極端である。カントはアプリオリな他者(現実界の他者)」を重視し、「アポステリオリな他者」は、誤解、錯覚でしかないというのに対して、ラカン「アポステリオリな他者(象徴界の他者)」を重視し、アプリオリな他者(現実界の他者)」「存在しない」という。しかしともに、この差異によって、他者との共有された世界観を可能にしているのである。すなわち「他者」は、人間/動物という差異によって保証されるのである。このような差異によって「他者」の存在を確保することは、様々な言説においては根元ではないかと考えている。たとえばデリダが人間/動物を形而上学二項対立として解体しようとしても、デリダ「他者」という倫理を確保するためには、人間/動物に依存しているのである。

フッサール現象学的還元において、認識の源泉をこれ以上疑うことができない直観においた。そして本質直観を志向性として統一していく。このときに、現象学独我論ではないのか」、そして「他我は見いだせるのか」という根元的な問題が出てくる。フッサールは、「感情移入」によって他我を確保しようとする。それは、カントやラカンと同じく、人間/動物の差異によって「他我」を確保することであるが、カント、ラカンと異なり、フッサールが、その始めての現象学的還元において、人間/動物の差異を現象学的還元(エポケー)してしまっている。だから現象学独我論であることから逃れられない「宿命」にあるといえる。




可能的アプリオリと可能的経験(アポステリオリ)


ラカン「性関係は存在しない」というときの強力さは、「人間は動物ではない。」ということである。その確からしさは「人間/動物の差異」に基づく。「(人間は動物のような)性関係は存在しない。」しかしこのような「人間/動物の差異」とはなんであるか、ということは問われ続けている。そのラカン的な解答は、言語の獲得であり、知能が発達し脳が大きくなった故に、未熟児の状態で生まれるということである。

それでも進化論の発展は、分子生物学進化心理学など「人間/動物の断絶的差異」を崩していく。

動物に性関係は存在するか?・・・動物の性関係は遺伝子にプログラムされた完璧なものだろうか。最近では、動物においても、生まれたあとの学習が重要であることが知られている。さらにそのような世界は、まさにラカン的な世界がある。すなわちイマジネールな死闘から、サンボリックな秩序(社会性)である。動物も、ある種の象徴界の参入によって、群れの掟を知るのである。

なぜ「継続」こそが「正義」なのか? その2 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050616

カントは「可能的経験は、我々の概念に実在性を与える唯一のものである。これがなければ、すべての概念は単なる理念にすぎず、したがって、真理を持つこともなければ、対象と関連を持つこともないのである」といった。アプリオリになにが与えられようと、経験を重ねることによってしか「真理」は得られないということである。

さらに進めてボクが考えるのは、「人間/動物の断絶的差異」を越えた、アプリオリとアポステリオリの相補的な関係であり、「可能的アプリオリである。アプリオリは、「可能的経験(アポステリオリ)」によって作動する可能性としてあるということ、いわば「やわらかな遺伝子」(ISBN:4314009616) である。たとえば、「ボクたちは言語として世界を見る」、というときに、それは単に経験としてあるわけではなく、言語という経験がアプリオリな生理システムの可能性を作動させるのである。その相補的な関係には、現実界アプリオリ)の他者」/「象徴界(アポステリオリ)の他者」の明確な差異はない。

それでも、ボクが「私の中には二人の「他者」がいる。」というのは、むしろ学術的な意味がある。哲学的、倫理的な「人間/動物の断絶的差異」の強力さと、科学的な「人間/動物」の差異の解体を同じ地平で語るためには、このような二人の「他者」が要請されるのであり、その先に差異の解体があるだろう。
*2

*1:「ゼロ学習」的な「コミュニケーション可能性」とは、生態学の要請する同一種のコード/デコードの機能の同一性」、すなわち生態学的同一種の人間ということ。

*2:画像元 http://www.j-area2.com/japan/history/old/asiangenjin.html