なぜ「継続」こそが「正義」なのか? その3

pikarrr2005-06-17


「私の中の二人の他者」


私の中には、二人の「他者」がいる。
 現実界の他者」…生物学的同一種、遺伝子プログラムで共有される「他者」
 象徴界の他者」…言語獲得によりインストールされる「他者」

欲望とは「(現実界の)他者」への欲望である。「(現実界の)他者」への欲望とは、「完全にわかりあえる」ことへの期待である。しかし「(現実界の)他者」と出会うことはできない、故に「欲望は無への欲望である。」

この不可能性は、「(現実界の)他者」にかわって、欲望の対象としての「(象徴界の)他者」を捏造する。「(象徴界の)他者」はそこに「(現実界の)他者」がおり、そのために「みんな」がその対象を欲望しているだろう、ことによって、現れる。

世界は、超越論的他者のまなざしの世界としてあり、私は世界を「(象徴界の)他者」としてみる。それは、石であれ、空であれ、机であれ、犬であれ、人形であれ、コミョニケーション可能性=気持ちが通い合うだろう他者(の痕跡)としてみるのである。これは、ボクが「転倒」と呼ぶものである。「偶有性から単独性への転倒において神性は捏造される」は、このように世界を「(象徴界の)他者」としてみることを意味する。




「転倒/反復」の運動


超越論的他者のまなざしによってつくられる「(象徴界の)他者」という幻想が、「(幻想の)無垢」である。欲望は「(幻想の)無垢」への欲望であるというとき、「(幻想の)無垢」は、「(象徴界の)他者」を払い除けて、「(現実界)の他者」へ到達しようとして、解体(消費)される。これをボクが「反転」と呼ぶ。「単独性から偶有性への反転において神性は暴露される」

しかし「(現実界の)他者」へは決して到達しない。「(幻想の)無垢」は汚される。このとき「反転」はどこかで「転倒」する。あるいは「反転」そのものが「転倒」である。主体とは、このような「転倒/反復」の運動である。

「転倒/反復」の運動とは、「(現実界の)他者」へ到達をめざし、「転倒」された「(幻想の)無垢」「反転」する主体維持の新陳代謝である。この主体とは、「幻想の主体」である。その遠くに、「(現実界)の他者」の声が聞こえてくる。それが決して到達しない「(本当の)無垢」である。




「継続」/「忘却」


デリダの、柄谷の「他者」は、倫理的な意味をもつ。到達不可能であることはわかっているが、「(現実界)の他者」へ到達しようという、「(象徴界の)他者」「反転」しつづけるという終わりなき試みへの決意である。しかし「反転」はどこかで「転倒」する。これが否定神学の構造である。

このために、結局のところ、ここで行われていることは「継続」である。「反転」の本質とは、「暴露」ではなく、「忘却」である。故に、「反転」への抵抗は、「忘却」への抵抗としての「継続」である。そして「継続」とはある対象に対する「転倒」の継続であり、ある「(象徴界の)他者」の終わりなき書き替え、忘却しない成長である。




欲望の「継続」が「正義」である。


「真実」は自己組織的な生きものである。それはいわば誰にもコントロールできないところにあり、やがて「忘却」していく。デリタが脱構築は、正義である」というときには、「暴露」、あるいは「郵便的」に意味があるのではなく、「継続」において意味がある。「継続」は、「忘却」されないために、「暴露」の注入、「郵便的」な複数化が必要とされるとという意味で、脱構築には意味がある。

この「継続」の力の源は欲望であり、欲望とは、自己完結的なものではなく、「欲望とは「(現実界の)他者」への欲望である。」から、欲望とは他者へのコミュニケーションであり、ここからデリダ的、柄谷的「他者」の声に耳を傾けつづけるという倫理観が現われる。

「真実」について、議論され、反論され、他者と関係し続けるという「忘却」へ抵抗していくという欲望の「継続」が、「正義」である。ある対象が正しいと考え、発言し、議論し続けるいう欲望の「継続」「正義」である。ここにラカンの倫理観「己の欲望に譲歩するな」が現われる。

「継続」脱構築のような知識を必要としない。「正義」権威主義的特権性から解放されるだろう。求められるのは知識でなく、「継続」する強度である。
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