なぜ私の中には二人の「他者」がいるのか?

pikarrr2005-06-25

「なぜドラッグは規制されるのか?(http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050622)」について、id:killhiguchiから頂いた質問への回答です。


  現実界の他者」とは?
 
killhiguchi
現実界ラカンのそれだとすると、そこに他者はいるのでしょうか?現実界は触れ得ない、常に知覚や言語から逃げていくようなものと私はとらえています。そこに「他者がいる」という時の他者とは、どのような在り方の他者なのでしょうか?また、その現実界の他者」を神経システムレベルでとらえてらっしゃるようですが、現実界とはそんな我々の神経システムの常に外に逃げるものではないでしょうか?

ぴかぁ〜
たとえば机の角で小指をうった、「痛い!」という場合には、その「痛い」は言語でしかなく、言語の向こうの生理的な痛さは「存在しません。」ラカン「存在しない」という意味は、現実界にあり、人は直接認識できず、「語り得ない」ということです。

このような意味で「神経システム」現実界にあり、「存在しません。」ボクが神経システムレベルを現実界の他者」というときの現実界とはこのような意味があります。だからボクが、「神経システム」シナプスなどのモデル、オートポイエーシスなど科学的知識を語るときに、それは正確には現実界の他者」ではなく、言語でしかなく、象徴界にあります。私の中にあるだろう現実界の他者」は語ることができないからです。

たとえばジジェク「他者は現実界である」というときには、目の前の象徴的、あるいは想像的な他者ではなく、その向こうの「他者」そのものを指します。それは現実界にあり、決して認識できない。だからラカン「(「他者」との)コミュニケーションは必ず失敗する。」といいました。

しかしボクが、現実界の他者」というときの「他者」とは生物学的に同一種である、というところで担保された「他者」であり、ベイトソン「ゼロ学習」的に、「必ずコミュニケーションが成立する「他者」です。」ボクたちはこのレベルでのコミュニケーション可能性によって、共有性を持ち得ているだろうという、ラカンの呪縛」への対抗です。

それはラカン的には、ボクたちのコミュニケーションは象徴界の他者によって、すれ違うしかありません。ラカン「性関係は存在しない」というとき、ボクたちは、動物の本能のように、遺伝としてプログラムされた完全な性関係はできません。ボクたちは、性関係とは何であるかを文化的に、教育的に言語として受け取った形で行いますが、そこにはなにが正しい性関係であるか、ということはありえません。そのために「性関係は存在しない。」のです。

それでも「本能の欠けら」があり、猿とコミュニケーションするよりも、違う言語であっても、違う文化であって、そして言語を獲得していなくとも、同一種としての人間同士であるという生理的な共有性によって、コミュニケーションは支えられているだろう、という「賭」です。


「まなざし」「文脈(コンテクスト)」は同じか?

killhiguchi
また、「まなざしの欲望」とは一種の自己再生産であり、文脈の再生産であり、オートポイエーシスであり学習2でるように主張を読み替えてもいいと思われます。そうするとアルコール中毒がそうであるように、ドラッグの快楽もまた、「まなざしの快楽」ではないでしょうか。そしてそれ故に、規制されるのではないでしょうか?そして「まなざしの快楽」が学習2のレベルだとすれば、それは象徴界のことではないように思われます。それはどんな生き物でも起こる、システムの自己再生産性、すなわちやっていることをやっているが故に楽しむ「耽溺」であり、少なくとも象徴界のことではなく、「他者」自体も巻き込んだ一つのシステムの形成であり、一種のカップリングであると思います。

ぴかぁ〜
文脈(コンテクスト)=「まなざし」として、とらえられるだろう、ということですね。このような考えは、斉藤環「文脈病」ISBN:4791758714)に準じているのではないでしょうか。「文脈病」では、文脈(コンテクスト)は、ベイトソンのコミュニケーション論から導かれます。学習1(刺激に対する反射。パブロフの犬、慣れ)の反復が、学習2(学習1のコンテクストを理解した行為)というメタレベルの理解を生む。このような「学習」は人ということではなく、生物全般として考えられた論理です。

ここには、当然、「超越論的他者のまなざし」などいりません。犬でも学習1を繰り返せば、学習2を学習します。そして斉藤は、このよう学習2は、文脈(コンテクスト)の再生産として、オートポイエーシスとして記述できるだろうと考えます。

さらに、斉藤は、ラカンとベースにした精神分析的(人間的)主体として、シニフィアンオートポイエーシスと、ベイトソンをベースにした器質的(動物的)主体として、コンテクストのオートポイエーシスカップリングとして、人間をとらえます。


OS(器質的主体)の環境は神経系であり、PS(精神分析的主体)の環境はシニフィアンである。言い換えるならば、「神経系」ないしシニフィアンは、主体のAP(オートポイエーシス)システムにとって環境の側に区分される。このことは「神経系」シニフィアンの他者性をも含意するはずで、そのままラカン現実界象徴界に対応させることができる。「文脈病」P357


この「器質的(動物的)主体/精神分析的(人間的)主体」は、ボクの考える「私の中の二人の他者」現実界の他者と象徴界の他者」と近いと言えます。


では、次にボクのいう「まなざし」の意味を説明します。ヴィトゲンシュタイン言語ゲームでは、人が行為を行うときの「規則」は、なににおいても保証されません。そのために行為は「暗闇への跳躍」として行われます。たとえば1+1=2であっても、どの場合も+が足し算であることを保証する根拠はどこにもない。111111+111111=222222であるとは限らない。ということです。

ではどのように、足し算であること、規則は保証されているのか。これに対して、クリプキ「共同体」を考えます。共同体の中で共有されたルールとしてある、ということです。大澤によると超越論的な他者である第三者の審級(これは、ほぼラカン大文字の他者象徴界)によって、保証されるといいます。それとほぼ同様な意味で、ボクはそれを「(超越論的な他者の)まなざし」と呼びました。すなわち、行為という「暗闇への跳躍」は、その行為をみんながこのようにすることが正しいだろうといっているという「まなざし」によって、行われている、ということです。


「暗闇への跳躍」について斉藤は以下のように考えています。


OS(器質的主体)としての主体に注目することで、コミュニケーションを前提条件とする「学習」および「コンテクスト」が記述可能になる。これをPS(精神分析的主体)の側から見るとき、学習は「暗闇の跳躍」でしかないし、コンテクストは不意に現れる対象a「クッションのつなぎ目」あるいは文字そのものとして与えられる。いずれにしても、PSの側からその起源を問うことは不可能であり、心的領域にあらわれるさまざまな読解不能の捻れ、パラドクスは、おそらくOSの作動に局在するだろう。だからラカンはOSについて、およそ語る言葉を奪われている。つまりそれは「存在しない」のである。「文脈病」P343


すなわち、斉藤の考える「器質的主体/精神分析的主体のカップリング」では、ボクたちは精神分析的主体側から認識できません。それはボクたちが言語という象徴界の他者」を通してしか世界を認識できないからです。だからベイトソン的な「学習」「コンテクスト」現実界にあり、ボクたちは認識することはできないのです。そしてボクが「暗闇の跳躍」を保証する「まなざし」というときに、精神分析的主体側から見た「コンテクスト」「象徴的なコンテクスト」と言えるのではないでしょうか。


あらゆる「体験」は、感覚刺激としてのOS(器質的主体)に学習の契機をもたらす。ただし神経症的主体であるわれわれにとって、もはや「純粋な体験」は不可能であるということだ。われわれのすべての体験は、シニフィアンの体制の中でしか、可能にならない。「体験」において一次的であるのは、まさにシニフィアンなのである。「文脈病」P338


再度まとめると、斉藤の「コンテクスト」は、器質的な「刺激−反射」の反復によって生まれる、いわば確実な「動物のコンテクスト」である。現実界側にあり、人に認識できない。それに対して、ボクの「まなざし」は、認識できない「動物のコンテクスト」を、象徴界側からみた、いわば不確実な「人間(言語)のコンテクスト」である。

ボクが、アルコールによって酔っぱらった人の快楽には「まなざし」が残っていると言うときには、酔っぱらった人は「無礼講」などのようなに楽しむという、不確実であるが、「暗黙の(無意識な)振る舞い方」(すなわち象徴界の他者」の快楽)があり、それによって快楽を味わっているだろう、ということです。それに対して、ボクがドラックによる快楽では「まなざし」あぼーんするというときには、ドラックの快楽は、不確実な「暗黙の(無意識な)振る舞い方」ではなく、確実な「生理的な反応」(すなわち現実界の他者」の快楽)によるものではないか、ということです。

そして、ボクも、現実界象徴界の境界をカオスの辺縁とする自己組織的な主体像」というのを考えていて、斉藤環のいうような、「器質的主体/精神分析的主体のオートポエティックなカップリング」に近いと思いますが、「人間」は多くにおいて反復でなく、言語によって「学習」するわけですから、コンテクストはやはり象徴界側にあるのではないでしょうか。