なぜネットコミュニケーションは必ず失敗するのか? 中

pikarrr2005-06-28

ネットという「無法地帯」


ボクは「まなざし」の共有の強度が、コミュニケーションを可能にしているといったが、これは他者との理解を確実にするということではなく、本質的に、「慣習的プラクティスの網」ように、社会の規範(象徴界)に拘束されることによって、意味の共有が可能になるということである。

だから「まなざし」の共有の希薄化は、逆説的に、社会的な拘束からの解放でもある。そしてネットコミュニケーションで起こっていることは、匿名性などによる「まなざし」の共有の希薄化であり、それによる従来の社会性からの離脱である。そしてそれがネットが「無法地帯」と言われる所以である。しかしこの「無法地帯」の意味は、単に非社会的な行為(荒らし)が横行しているというだけの意味ではない。

たとえば、ネット上はとても開放的なイメージがあるが、思いの外、閉鎖的である。多くは個人のホームページや、ブログ、あるいは興味を同じくする人たちの掲示板など、閉鎖的に、個人あるいは「知り合い」の小さなコミュニティで成り立っている。

だれでも経験があるだろうが、始めてレスをすることは、とても敷居が高い。また発言する場合には、細心の注意を払い、丁寧な挨拶のもとに発言する必要がある。それは、レスされる方がむしろ警戒するからである。なぜなら、レスする方はすでに過去ログをみて、相手のことを知っているが、レスされる方は、新参者がどこのだれかわからないものとして登場するからである。そしてこのような警戒は、新参者が荒らしである可能性があるからではなく、ネットには潜在的ディスコミュニケーションがあるためだ。




パロール(会話)とパロリチュール(文字会話)


ボクは、ネットコミュニケーション、特に掲示板、チャットの会話を、パロール(会話)とエクリチュール(文章)の中間で「パロリチュール(文字会話)」と呼んだ。

たとえば初対面の人との現前の会話(パロール)は、緊張を強いられるものである。そのようなときに、その人の会話のコンスタティブな意味を理解しながら、また平行して、懸命に場を読み、「まなざし」を共有させようとする。そのために、その人についての多くの情報をえようとする。その人の年、格好、容姿、表情、話し方、声の調子など、そしていままでの経験から懸命に、その人の「人物像」を作り上げる。

このような相手について情報は、初対面の人だけではなく、知り合いとの会話という「まなざし」の中でも、特に重要である。「あの人がいうなら」「あいつがいうことは」、というように、同じコンスタティブな意味でも、その「人物像」によって、理解の仕方は大きく左右される。

それに比べて、ネットコミュニケーションのパロリチュール(文字会話)では、テキストベースでコミュニケーションされるために、伝達される情報量が少ない。さらに、多くが匿名の他者であるために、特に相手の情報が決定的に欠落している。それは、書かれた文字そのままのコンスタティブな意味が伝わるが、メタレベルの「まなざし」が伝わりにくいことを表している。

たとえば先ほどの母親が子供に「もう、好きにしなさい!」という例を、ネット上の第三者で考えるみる。発信者は、「まなざし」がある強度で共有されているという錯覚のもと、「もう、好きにしなさい!」とレスするだろうか。それとも「まなざし」が共有されていないのだから、コンスタティブな意味として、「かってなことはするな」と送るだろうか。そして受け手側はそのテクストをどのように理解するだろうか。もしかすると、それは意味などない単なるコピペかもしれない。




ネットコミュニケーションにおける人格消費の欠落


ボクは、発話のコンスタティブな意味、そのままの意味を理解することを「記号消費」で呼び、また「まなざし」の中でも、特にその発話を「誰が、どのような気持ちで、どのような状況で、」発言したのかという、相手に関する情報を理解することを「人格消費」と呼んだ。

そしてネットコミュニケーションの特徴として、「まなざし」の中でも特に、その発言を誰が、どのような状況で、どのような気持ちを込めて、発言したのか、ということが伝わらず、欠落するということ、「人格消費」が決定的に欠落し、「記号消費」を重視して、コミュニケーションされる、ということである。*1

このような「人格消費」の困難は、「暗闇の跳躍」をより困難なものにして、ボクたちは宙づり状態におかれる。そしてこのような宙づり状態を回避するために、ボクらは懸命にその「真意」をとらえようと、問いかける「キミは誰?、どのような気持ち?」と。




「なぜコミュニケーションするのか」純化


しかしそれほどまでして、「なぜコミュニケーションするのか」、ということがある。特にネットはコミュニケーションを容易にしたが、それほど人は伝えることがあるのだろうか。コミュニケーションは、情報をつたえるために行われるのではない。人には伝えることなどそうそうない。そうではなくて、コミュニケーションすることが目的なのである。

だから、ネットコミュニケーションでは、「なぜコミュニケーションするのか」、ということが純化される傾向がある。すなわちなにかを情報を伝えるために、宙づり状態を回避するのではなく、宙づり状態を回避すること、「人格消費」することそのものが、欲望されるのである。「まなざし」の共有の希薄は、社会性を取り払い、他者が剥き出しになる。ディスコミュニケーションそのものが、すれ違いそのものが、「人格消費」を欲望することを加速するのである。

「ネットコミュニケーションは楽しい。」だからみな、ネットへ向かうのである。より困難であるはずの、ネット上の「暗闇の跳躍」が成功したように感じた時が、誰にでも経験があるだろう。それは社会的な慣例的な関係を越えて、「真意」を交換したように感じる。これが「ネットコミュニケーションの快楽」であって、ネット中毒が起こる要因だろう。




「イマジネール(想像的)な死闘」への転倒


しかしこのような純化は、「ネットコミュニケーションの快楽」を生むとともに、多くにおいては、真面目な議論が突然、人格をかけた「死闘」へと転倒し、その場そのものを破壊する可能性がある。現にボクは、私的な掲示板や、最近ではブログにおいて、ネット攻撃のような悪意あるもめ事ということでなく、お互い真面目な人々の些細な議論からフレーミングが発生し、それがその「場」そのものを巻き込んで、容易に閉鎖したのを、多く見てきた。

たとえば、ラカンによると、ボクたちは自分だけでは、自分が何ものであるか見いだすことができない。そのために他者との鏡像関係において、自分をが何ものであるか、見いだそうとする。それが、「欲望とは、他者の欲望である。」ということである。まさにここに「なぜコミュニケーションするのか」の意味がある。そしてこのような想像的な転移の関係は、「他者がほしがっているものがほしい」「他者のようになりたい」という、「イマジネール(想像的)な死闘」へ繋がる。

そして「まなざし」の共有は、「慣習的プラクティスの網」ように、社会の規範(象徴界)として人々を拘束することによって、このような「イマジネール(想像的)な死闘」を回避させているのである。しかしネットコミュニケーションでの「まなざし」の希薄化は、社会的な拘束からの解放でもあとともに、社会性を取り払い、他者が剥き出しするとともに、「人格消費」を欲望することを加速する。すなわち、「イマジネール(想像的)な死闘」への回帰である。

たとえば2ちゃんねる「論理で負けると人格攻撃!」というフレーズがある。コンスタティブな会話のやりとりで、宙づりにされた緊張が崩れたときに、相手の人格を攻撃する発言をする傾向がある、ということだ。コンスタティブな文章のフリをして、チクチク嫌みをいう、あるいは、「えらそうにいっても、引きこもりだろう。」「知ったかぶりだけだね。」などなどの中傷合戦になる。それはまた「人格消費」への欲望のシグナルでもあるだろう。

さらには、長崎女子小学生がネット上の些細なトラブルから、同級生を殺害した事件も、同様な些細な議論からの「転倒」によるものではないだろうか。

このように、ネット上のコミュニケーションは、容易に「イマジネール(想像的)な死闘」へ転倒する可能性を孕んでいる。それがネットが「無法地帯」と言われる所以であり、ネットが閉鎖的である理由でもあり、ネットコミュニケーションが失敗する理由である。

*2

*1:「親切に」コンスタティブな意味できちんと発言した場合には、このような発言は、心理学的にも、冷淡で、怒りっぽく見えるようである。「(実社会では)温かい印象づくりの主要な決め手は、非言語的な手がかりである。・・・話の内容は、印象判断に用いられている他の手がかりに比べたら目立たない存在である。インターネットの世界では、どこへいっても主役は書き言葉だ。・・・サイバー空間では誰もが実際よりも冷淡で、達成志向で、怒りっぽく見える。[お勉強]インターネットの心理学 パトリシア・ウォレス その1 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20040420#p1

*2:画像元 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050601-00000212-kyodo-soci